自身を大魔法使いと名乗る女が突然車の助手席に乗ってきて、ついでに死神も現れた
長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉
第1章 3.異端の名①
砥上が部屋に戻った時、階下で両親が起き出す音がした。このまま何食わぬ顔で腹の虫を収めようとテーブルについても問題はないだろうが、別れ際の秋山のセリフが気になった。
「お前、川臭えぞ」
試しに自分で腕や服の臭いを嗅いでみるが、よくわからない。もとより鼻の中にまで川臭さが付いていたら意味がない。かといってまた朝からシャワーを浴びたらなんと言われるか。
それに今は、顔を合わせる気にならない。実際に聞いてもみないで、自分の一方的な思い込みであることはわかっている。それでも顔を合わせたら目を逸らし、喉元まで出かかる言葉を必死で抑えてしまうだろう。「実は俺鳥なんだけど、どっちかもそうなの?」きっと呆気に取られるだろう。母親なんぞは泣いてしまうかも知れない。
休日の朝から、泣き崩れた母親を挟んでの家族会議なんてごめんだ。
壁に掛けてあったバックパックに着替えとタオルを詰め込んで部屋を出る。
「逍遥、朝から出掛けるのか」
新聞を手にリビングへと向かう父親と会った。
「ジムに」
「忙しい奴だな」父親の呆れたような声の後、すぐに追いかけてきたキッチンの母親の「朝食は作らないからね」に応えることなく、砥上は玄関を出た。
今朝は時間がなかったが、昨夜の鵺追いについては後日秋山に詳しく聞いておかねばならない。何しろ途中から意識がぶっ飛んだのだ。その時の状態を考えながら、家の敷地から一段下がった駐車場に向かう。新興住宅地であるこの団地は坂道が多く、上下に分割された土地が多い。それでもまだこうして駐車場を設けるだけの余裕がある家はいいほうだ。土地の価格が年々上がり、最近では住人のいなくなった土地をさらに分割して売り出している。
駐車場の上をテラスとして使える分だけありがたい。
シャッターを引き上げると朝日に照らされた空間を漂う埃が煙のように舞う。
そろそろ洗車をして欲しそうな愛車のボンネットを横目に、運転席に収まりエンジンをかけた。外界から遮断された狭い空間に響く断続的な安定した音と力強い微かな振動。
落ち着くな。
目を閉じてエンジンの回転音に耳を傾けていると、低い音の中にゆっくりと沈み込むような錯覚に落ちていく。
それほど長い時間ではないが、意識の底についた辺りまでいくとまた秋山の言葉を思い出した。
ちゃんと自分、受け止めろよ。
どんな姿になってもお前はお前だ
「自分を受け止める、か」
声に出して、苦笑いを浮かべる。
彼は何故これほど自分を気にかけ、励ましてくれるのか。
それも聞いておかなきゃな。
やや車高の低い愛車をゆっくりと車庫から出した。
住宅街の坂道を下り、R139線に入るためのTの字の信号。青信号であることを確認して右折した視界の中に、見た顔があった。
魔界人だ。
死んだアマンダとかいう女性と一緒にいた女性。大きく切ったハンドルを戻しながらサイドミラーでその影を追う。いない。錯覚だったのだろうか。だとしたらかなりの重症だ。
「はぁい」「ぅうわ」
やれやれと息を吐いたところで安全運転に戻ろうとした矢先、助手席の女が声を掛けてきた。
「いつの間に」
動揺が運転に出て蛇行しないよう、ハンドルを握る手に力を込める。
「今に決まってんじゃない」
何故決まっているのか。「ていうか、どうやって入ってきたの」
「あんたが聞くのはそこじゃないわ、鳥ボーイ」
センスのないあだ名だ。「俺ボーイじゃないし」
「アタシからすれば立派なボーイよ。それもチェリー・ボーイね」
ますます持って侮辱的な呼び名だ。
「それで、俺は何を聞けばいいの。君の名前?」
多くの会社が休みとなる土曜日の国道は甲州方面に行く他所のナンバーだらけだ。貨物車両も少なく、車道はゆっくりとした速度で流れている。
「そうね、シェザーを覚えているかしら。アタシの名前はアイリスよ、よろしく」「パーティーの主催者だ」
秋山に連れて行かれた魔界人の集会を取り仕切る、この辺りの魔界人コミュニティーの中心的男だと紹介された。砥上はその男の前で暴走し、彼に大怪我を負わせた。その時も途中から記憶をなくし、事の顛末を後から秋山に聞く羽目になってしまった。主催者とはまだ正気の時に顔を合わせていたから覚えているが、あの時の自分は秋山の魔法によって顔を変えていたはずだ。
「どうしてアタシがあんたを知っているか、不思議そうな顔ね」
魔界人の集会に出席したのは、手がかりを得るためだった。何故鳥に変身できるのか。あの夢が関係しているのならいつの記憶なのか。もし本当は人間でないとしたら、いまの両親も人間じゃないのか。そんな悩みの解決の一端にでもなればと、秋山が連れていってくれたのだ。だが彼曰く、魔界人の中には人間を好んで食する輩もいるという。少なくともこの地域にはいないらしいが、だからといって全くの無害とも言えない。そのために秋山は街で会っても砥上の素性がバレないように彼にあだ名を与え、外見を変える魔法をかけた。それなのにこうして容易く見つかってしまうとは。
「アタシは大魔法使いだから。吸血鬼のチンケな外見魔法なんてすぅぐ見破っちゃうわ。それに吸血鬼はね、普通魔法は使わないものなのよ」
「それ、俺を動揺させようっての」
魔法を使わない吸血鬼が魔法を使ったからといって、吸血鬼の普通がどんなものか知らない自分には意味がないと鼻で笑って見せる。秋山に不利な情報を聞かせ、彼との信頼関係を崩そうとしているのだろうか。
だが他の吸血鬼が使わない魔法を使えるのなら、秋山は少なからず他の吸血鬼より強いか、魔界人としてマシな方なのではないだろうか。
「シェザーが会いたがってるわ」
ひと呼吸の間を取ってから、「断るよ」と返す。
魔界人を信用するな。そう、彼はいった。「いざとなったら俺のことも疑え。だがな、自分の直感は信じろ。お前はもっと自分を信じろ。頼れるのは自分だけだかんな」
大怪我を負った魔界人が、怪我を負わせた相手との面会を希望するのは訳がある。それもとびきり分の悪い理由が。いくら世間知らずだと秋山に笑われようと、そのくらいの危機感は流石に持っている。魔界人とか人間とかじゃなく、生物として。
きっと「やばい」の観念は種を超えた普遍のものに違いない。
「Mがどうなってもいいの」
M。前にも後にも何もつかないそのアルファベットひと文字が、仲間内での秋山の呼び名だった。
「冷たいのねギース」
黙っていると、あの夜砥上が名乗ったあだ名を女は口にした。集会で会った相手には通り名を使うのが礼儀なのか、それとも本当にまだ本名がバレていないのか。顔を知りあの場所に居たのならおそらく「砥上逍遙」という名前も割れているに違いないだろうが、それが果たして本当の名なのか確信が持てないのか。人間の親と暮らしていても、公開されている情報が正しいとは思っていないに違いない。
魔界人は秘密主義だ。もとより、魔界人は国内に存在しないと公言している国の中にいるのだから自然とそうならざるを得ないのか。集会に来る顔ぶれで本名を名乗る輩は少ないらしく、ほとんどがニックネームで呼び合っていた。
だから秋山もあんなに秘密主義なのか。砥上の世話を焼いてくれる割には住んでいる場所も出身地も教えようとしない。人懐こい笑顔でいるくせに、自分の話は一切しない。
そもそも「秋山守人」という名前さえ本名だろうか。
「あの人なら大丈夫だから」
「そうだといいのだけれど」
彼女は真っ赤な唇を尖らせた。外国の映画に出てくるようなバタ臭い色気があるし、黒のスリップドレス一枚という格好はアジアの小国のさらにこんな田舎では、休日の朝に出歩く姿じゃない。
待てよ、俺は何を見ているんだ? 今は車を運転中じゃないか。
時間がおかしいことに気づいた。彼女が助手席に現れてからどのくらいの時間が経過した? どうして前を向いて運転していたはずなのにアイリスの容姿や仕草を正面から見ている?
車は動いているのか?
その時突然ガクンという強い衝撃があって、投げ出されるように一度大きく前に傾いた体がレカロシートに引き戻された。
車が急停止したのだ。ブレーキを踏んだ覚えもないのに。
アイリスとの会話に夢中で前方の車に衝突してしまったのか。
前方を見ると、ボンネットの上に黒い塊が乗っていた。
緩くウェーブのかかった短い黒髪が車体の黒と混ざり合う。白い素肌に絡まるスリップドレス。
アイリスだ。
どこかからクラクションの音が聞こえ、運転席側のドアのガラスが叩かれた。「あんた、大丈夫かい」
知らない顔の男がのぞいている。
俺が撥ねたのか? どうする? 死んだのか?
「おい、しっかりしろ」
運転席が開けられ、伸びてきた手に肩を揺さぶられた。その手はついでにハザードランプのスイッチも押す。
「怪我はないか」
知らない男だが、多分通りすがりの親切な人だ。
「ああ……大丈夫、です」
なんとか声を絞り出す。動揺が声に出ていなければいいが。
開けられたドアの間から、「飛び降りだ!」という叫びが飛び込んできた。
「ならいい、いやよくないか」
首を振りながら、男はボンネットの上を見る。ゆっくりシートベルトを外し外に出た砥上もそれに並ぶ。
「このホテルの屋上から飛び降りたのか」
声を掛けてくれた男が砥上の腕を掴み、他の車両の邪魔にならないよう歩道側に導いた。そこはビジネスホテルの前で、見上げた15、6階の建物は朝日を背にして黒い墓石のようだった。ホテルから出てきた従業員らしき男が電話を手に喋り続けている。
一瞬止まった車の流れが、再び動き始めた。
「格好から見るに、どこかの風俗店の女かな。あんたも災難だな」
飛び降りだって? 今まで俺の車の助手席に座っていたはずなのに。
「いえ、あの、すみません。もう大丈夫です」
考えろ。落ち着いて考えるんだ。
相手は魔界人だ。こんなことで死ぬのか?
何か意図があるはずだ。大体、この人は本当に親切な通りすがりの人間なのか?
誰にも関わるな。
これ以上、関係者を増やすな。
猜疑心が囁く。
「そうかい? 顔が真っ白だよ」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
砥上の車の後にあるのは、声を掛けてきた男の車だ。男同様、見覚えはない。
やはりただの親切な人間か。
「ならよかった」
男が安堵した笑みを浮かべた途端、世界が反転した。全ての色がグレーの色調になり、目の前で電話をしていたはずのビジネスホテルの従業員の姿が背中がわに回る。
「君は、何だか変わった存在だね」
何が何だか、急な転回に追いつけず今度こそ言葉も出ない砥上の視界の隅を、黒い影が横切った。黒い営業用スーツを着たやたらとスタイルのいい女がボンネットの上のアイリスの頭を掴み、持ち上げる。するりと、半透明の影が体から抜けた。いや影ではない。幽霊、霊魂だ。なら、肉体から霊魂を抜いた女は死神なのか。
魂だけになっても、アイリスの格好はスリップドレスのままだった。砥上を助けた男がその彼女の横に立つ。よく見ればこの男の格好もまた、白いワイシャツに黒い吊りズボン、ネクタイもジャケットも黒という黒づくしだ。ちょうどアイリスを挟んで立つ女の死神が何か書類のようなものを書いて、男に渡す。この場合、男も死神と見るのが妥当だろう。
「やばいな、一度に死神二人も見ちゃったよ」
いきなり放り込まれた非日常への拒否反応なのか、体が変な震えを起こす。
「そうだね。我々が見えるというのは、ちょっとした誤算だったな。でも安心していいよ。別に悪いことじゃない。我々のことは見えないものとして処理してくれたまえ」そして男はアイリスにウィンクして「君に用があるのは彼女だ」と続けた。「彼女がこの状況を作った」
少し、ばつが悪そうにアイリス(の霊魂)が近づいてきた。
「シェザーがあんたを探しているのは本当だけど、アタシは言われなくてもあんたのところに来たわ。Mの事を教える代わりに助けてほしい子がいて、そのために死んだの」
耳を疑った。
「だってアタシは生きているうちはシェザーに逆らえないし、アタシじゃその子を助けられないの」
「だからって自分が死んじゃったんじゃ、その子が可哀想じゃん」
「いいのよ。いずれこっちに来るんだから。長く生きるのも飽きたし。そうね、あんたは優しそうだから、すぐには無理かもしれないわね」
戯けたように小さく笑う。だけどその笑顔は、ちっとも楽しそうじゃない。
むしろ寂しそうであ。
まあ、死んでしまったのだから当たり前か。
不思議そうに見る砥上に説明する彼女の姿も声も、霊魂とは思えない。しいていえば少しだけ体の向こうが見えるくらいか。
「もし、俺がその子を救えなかったら」
「大丈夫。Mを助ければ、あの子も助かる。だからあんたは早く、Mが生きているうちに助けてあげて」と、頰にキスをした。
何だか、わかっているのは本人だけで随分一方的だ。もちろん、秋山が無事かどうかは確認するつもりだが、その後は彼女の要望通りにできるかどうかはわからない。
例の男の死神が近づいてきて、アイリスと並んだ。
「どうして俺なんだ」
「わからない。シェザーが探しているし、勘よ」
時間切れとばかりに肩を竦める。
「それとね、あんたはひどく良い匂いがするのよ。気をつけなさい」
ふたりの死神に挟まれて灰色の空間を奥に歩いていくアイリスが手を振った。
「ちょっと、俺はどこへ」
助けに行くべき肝心な場所を聞こうとして手を伸ばしたら、世界はいきなり変わった。あの空間に入った時同様、前触れもなく。ただし砥上が立つ場所は飛び降り自殺のあったビジネスホテルの前じゃない。
先程出たばかりの、シャッターを開けたばかりの自宅のガレージだった。
「うそだろ」
問いかけは虚しく自分の耳に返ってくる。また夢か? 白日夢なのだろうか。
違う。魔法だ。自分で大魔法使いといっていたあの女、アイリスが魔法で見せた光景だ。
彼女は、本当に死んだのだろうか。
唇が触れた頰に手を当て周囲を見回しても、そこはやはりガレージの入り口だった。
この場合時間はどうなるのか、物語的には戻っているのが普通だろう。
急いで運転席に向かおうとした足が止まる。
ビジネスホテルの屋上から落ちて来た彼女がいたはずのボンネットには、傷ひとつついていなかった。その代わり、うっすらとした模様が光の中に浮かび上がる。
指で描いたのではない。埃が寄り集まり自然にできたように見えるが、偶然じゃないのは明白だ。
「地図、か」
よく見ようと手をボンネットに乗せた途端、その模様は風に吹かれたように崩れてしまった。
だがまだ覚えている。
地図の起点は明らかにこの家だ。スエットのポケットに突っ込んできたスマホを取り出し地図アプリを見る。そう難しい地図ではなかった。まっすぐ伸びた太い通り。おそらくR139号線で、それを真っ直ぐ行ったところの甲州との境にある朝霧高原の一角。
場所が特定できると、砥上は運転席に乗り込んだ。今度は溜息も、エンジンの音に意識を沈めることもしない。こういう時は大抵、敵対する何か、例えば人か組織かの罠だと相場が決まっている。けれど映画でもドラマでも、分かっていながら主人公はその罠の中に飛び込んでいくのがセオリーで、観客は大概舌打ちしながらもそれを見て楽しんでいる。自分だったら絶対にわざわざ罠の中に飛び込むことはないと思っていたが畜生、やっぱり行くしかないじゃないか。
彼が砥上の知っている秋山ならば、他に助けに行く人間はいないはずだ。
秘密主義で、いつも一人の4分の1の吸血鬼だ。
注意しながらも普段ではありえないスピードで住宅街を抜け、R139に合流するT字で赤信号に捕まる。思わず信号無視をしそうになるのを抑え、いらいらとする視線が信号機の下で止まった。黒くて小さな物体が、信号機の根本と横断歩道の間にある。
なぜ気になったのか。眇めた目に、黒いスリップドレスを着たアイリスが映った。彼女はじっとこちらを見ている。
さっきと同じように、いつの間にか車に乗り込んでくるのか?
だが咄嗟のその構えは後続車のクラクションで簡単に崩れた。気づけば信号は青に変わり、アイリスの姿は消えていた。急ぎたいところだが注意深く右折し、もう一度信号の下を見る。
転がっていた小さな黒い塊は、ボロ切れのようになった黒猫の死体だった。
それからもう一度同じ道を進んでも、例のビジネスホテルの前で自殺者が降ってくることも死神の姿を見ることもなく、事故渋滞が起きていることもなかった。
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