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緊張感が増すばかりの山小屋の中で、砥上親子だけが不自然なほどの冷静さを保っていた

長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉

第1章 6.暗き森⑤

 山小屋の中の空気が、一気に警戒感を含んだものに変わったのがわかった。

「私たちは駿河洲から」
 答えかけた遥希に芦川が「ちがう」と首を振る。
「どこのルートを通ってきたんだ? 旧ハイキングルートは禁足地帯を横切るから入れないはずだ」
 はっきり入れないといい切るからには、人や動物が通れないようになっているのだろう。

「適当に歩いてたら、森の中に入れたんだ」

 話ながらも腰に当てていた遥希の手が、体とズボンの間にある物体に触れた。傍に座るゆき子が手で、それをそっと抑える。相手は銃を持っているが構えようとせず、まだ肩に掛けたままだ。

「どの場所から?釣り場以外は護岸ギリギリまで侵入禁止用の網フェンスが張ってある。尾根側のルートにも入れない」

「随分厳重ですね。まるで何かを出さないような」
「話をすり替えるな」
 このままではまずいと口を出した秋山に対し、芦川の声が鋭くなった。

「今は駿河洲からは甲駿大橋も渡れないように落橋らくきょうしてある」
 この辺りをドライブコースにしている砥上もそれは知っていた。笛吹大島は芦川が親洲とよぶ甲斐ノ洲と駿河洲との間の水瀬にあるが、橋はどこにも架かっていない。
「島へ入るには親洲から船で入るしかないが、俺が詰所を出た時には管理局以外の船は無かった。なんの目的で、どうやって入ったんだ」

 魔界の道具で空間を跳んで、なんて言えるわけがない。

「私たちがここにいることの、何が問題なの」
 緊張が高まる中で場違いなほどゆき子がゆったりとした口調で訊ねた。一瞬だけだが、場の空気が和んだ。

「ここは立ち入り禁止だ。俺は仕事として入っている人間を見つけたら罰しなきゃならん」

 心なしか芦川の言葉にあった棘が和らいだ。侵入者に罰を与える。管理する者として当然の職務だが、どうも芦川はそういった職務を遂行するのは気が進まないようだ。

「そうね。でも、入ってしまったのですもの。悪気なんて、本当にないのよ」

 落ち着いた、というよりも無意識な平和的な態度に、秋山は間違いなく砥上はこの母親の息子だと納得した。もっとも砥上の性格はどこか間が抜けているような感じだが、ゆき子の場合は普通に品がある。

「ああ、そうだと思うさ。これまでにも何組か、同じような理由で森の中に入ったグループを保護したことがある。俺も、正直あんた達が危険な連中じゃないと思っている」

 グロックに手を置いたままの遥希も、いつでも吸血鬼の力を出せるよう緊張感を崩さない秋山も、その言葉に胸が痛んだ。

「だがな、こんなに奥まで入り込めるはずがないんだよ」

 その時、芦川の胸元に吊るされた無線機が音を立てた。ノイズがひどく、人の声はするがいっていることがわからない。

「出なくてもいいんですか」

「ああ」と秋山の問いにチラリと一瞬だけ無線機をみる。「この島は電子機器がほとんど使えない。ここは尾根の頂上でかろうじて拾うが、少し離れたら用を成さない。電波以前に機械的に動作不良を起こすんだ。スマートフォンも同じで、島には電波塔もない。親洲側の釣り場ならなんとか」

 また、ノイズ絡みの音が鳴った。今度はいっそう大きな音を出して、間の人の声も断片的だが拾えた。

”テ……リスト……逃亡中……。複数……”

 サッと芦川の顔色が変わった。肩にかけていた猟銃に手をかける。だがそれよりも早く、秋山が吸血鬼の速さで芦川の前に立った。

「すんません、追われているんです」

 その手には遥希の腰にささっているはずの銃が握られていた。
 吸血鬼の能力である非人間的な素早い動きで移動しながら抜いたのだ。

 またもこの青年に助けられるのかと、遥希は唇を噛んだ。
 息子ひとり、家族さえ助けられない無力な父親だと自分を罵る。

「危害を加えたくありません。このまま親洲まで逃してくれませんか」
 銃の安全装置はかかったままだ。だが今の理解不明な速さで移動ができるなら、安全装置は意味のないのも同然だと芦川は思った。

 この青年は人間離れしているが悪い存在じゃないと、これまでの様子から理解する。彼が背にする家族は秋山のことを恐れていないし、無理やり行動を共にしているわけでもなさそうだ。

「わかった。何か理由があるんだな」
「降ろすわけには行きません。当直は二人以上ですよね。無線機と、銃もこちらへ」
 芦川の目線を読み、秋山が先回りして告げた。すぐにでも監視局とやらの詰所に連絡を入れられなかったのはありがたい。

 抵抗することなくすんなり差し出した猟銃を砥上に渡す。鉄と木で造られたそれは見た目よりもずっと重い。急に彼は、この重さは命の重さに匹敵するのだろうかと考えた。
 いまは自分達が狩られる側にいるというのに。

「逍、猟銃それを遥希さんに渡して、これを潰せ」

 迷いもなく息子に指示を出す秋山の冷静さに遥希は感心した。自分達をこの島に放り出した後、空を飛んでどこへでも行けるというのに彼は、まだ助けようとしてくれるのだ。

 言われた通り砥上は父親に猟銃を預け、秋山が土間に放った無線機を足で踏み潰した。

「それで、俺をどうするんだ」

 銃を突きつけられ、秋山と砥上に前後を挟まれた芦川は落ち着いていた。秋山も無抵抗の人間を痛めつける気はないはずだ。納戸にロープもあったはずなのでそれで手を縛り放り出すのがいいかと考えていた砥上はふと、芦川の左肩に白い紙切れが張り付いていることに気づいた。

「秋山君、これって嫌な感じがするんだけど」

 何も……本っ当に何にも考えずに砥上が剥がしたそれを見た秋山の顔が驚きに変わった。父親の遥希もすぐに猟銃を構える。

「あんた陰陽師だったのか」「おい、そいつを引き裂け」遥希と秋山が同時に声を上げる。そして芦川も猟銃を向けられて怯え、砥上の手にした紙切れを見て驚く。「違う、俺じゃない」

 何が起こったのか理解できないが、言われた通り砥上は紙切れを引き裂いた。

 瞬間、砥上の手の中から弾き出たと同時に黒子みたいな衣装を着た、二つの白い人形ヒトガタが出現した。「式神しきだ」すぐさま秋山が芦川の体を自分の方に引き寄せ土間に放り出した。後頭部のすぐ下に足を置く。そして自分を捕まえようと襲いかかる式神の腕を両手で受け止める。一方不意をつかれた砥上は土間に倒され、もう一体に馬乗りにされていた。視界の中に猟銃を振り回す父親が入る。出来れば猟銃それで撃ちたいところだが、息子がいるのできないでいるのだ。相手同様砥上も馬乗りになる白い人形の肩に手を当て抵抗しているが、いつまで持つだろうか。「式神」と呼ばれた相手は人間ではないが厚みのある体はゴムのような感触があり、紙切れから生まれたとは思えないほど力が強い。

 地面に腹ばいになり、秋山の足の下となった芦川は何が起きているのか理解できなかった。ヒョロリとした手足の青年の足は両手でどかそうにもびくともしないし、体の上に巨大な丸太が乗っているようだ。そしてふたりの青年の力がそれぞれ組み合っている人形の力と拮抗しているのか、一瞬だけ全ての動きが停止したその時、小屋の扉が勢いよく引き開けられた。

流渦りゅうか! 蒸渦じょうか!」

 声と共に空中に渦が現れ、新たな何かが式神に襲いかかる。

 湖澄の手から離れた勾玉は、一瞬にして水の世界の住人へと変わった。流渦は鎧を纏った古代魚の姿で秋山と力比べをしている式神に体当たりして噛みつき、そのまま勢い余って小屋の壁に激突する。小さな小屋が揺れるほどの震動を起こしながらも組み合ったまま離れない。片方の人魚に似た形を取った蒸渦の方は、砥上の上にのしかかる式神の背中に三叉戟を深々と突き刺し力ずくで引き剥がした。だが相手は式神だ。痛がることも血が出ることもない。体を捻り三叉戟から逃れるとすぐに空中に溶け込んだ。

「追え!」

 主人の指示と同時に蒸渦もその後を追う。一方流渦の方は、小屋の壁際で鋭い爪の生えた手だか鰭だかで、すでに抑えつけた相手をただの紙切れへと戻したところだった。それこそズタズタになった白い紙があたりに散乱している。

「あんたはいったい」

 これには流石の秋山もすぐに対処できないのか、突然入ってきた青年を見つめ言葉を詰まらせた。手にしたままの拳銃を構えることも忘れているようだ。

「戻れ、流渦」

 秋山の言葉など無視し、湖澄は壁際で抜け目なく他の人間を見る古代魚に手を向けた。推進力を得るかのように尾鰭で壁を叩いた古代魚が、体を反転させながら戻ってきて伸ばされた主人の手の前で泡となって消える。手の中に戻った透き通った勾玉を確認した刹那、湖澄の体を強烈な痛みが襲った。口の中に血が溢れ、たまらずに膝をつく。黒い土間に血がこぼれ落ちた。

「ちょっと、大丈夫かい」
 尻餅をついたまま呆けていた砥上が触れようと伸ばした手を薙ぎ払う。
「触るな」

 式神を追っていった蒸渦はちゃんと式神の操り手を始末した。だが、同時に深手を負ったのだ。「戻れ、蒸渦」肩で息をしながら呼び戻すと空間から霧のように現れ、広げた手のひらに勾玉となって戻った。

 無理をさせてしまった。

「終わった、のか?」
 出現した霧が湖澄の手の中に戻り、それ以上何も起こらないとわかるまで数秒のロスがあった。
「式神の操り手はどうなった」

 一連の出来事からやっと我に返った秋山が、両手を胸にあて座り込む人物の頭に銃口を向けた。黒のデニムに黒のパーカー姿の彼は、小屋に入ってきてからもずっとパーカーを被りっぱなしだ。

 傍に座り込む男を見た砥上の目が、チカチカした。まるで故障する前のテレビ画面みたいに変だ。

「秋山君、助けてくれたんだよ」

 とにかく、立ち上がる。その時初めて気づいたが、男の背にはマシンガンがあった。ぺたんと座り込んだ腰元にも、拳銃のホルスターが見える。

「わかってるよ。けどな、そんだけ物騒なもんを吊り下げてる奴が安全と思うか」

 結果的には助けられた形になったが、そこに好意があったかどうかは怪しい。こんな風に行動を止めなければ、あのままの勢いで何を仕掛けてきたかわからないのだ。

 あんな怪物が出る術を使ったり姿が掠れたりしたら警戒せずにはいられないか。

「秋山君の友達じゃないの」その場で座り込む人物を見下ろす。立っていられなかったほどの苦しみは去ったのか、背中の様子を見る限りでは呼吸は穏やかになっている。

「自慢じゃねぇが、人間界(こっち)に友達なんていねぇよ」
「そりゃ確かに自慢じゃないわ」

 相変わらず緊張感のない二人の会話に思わず湖澄の口元が緩む。笑いそうになるのを堪え、彼女はゆっくりと体を動かした。

 座り込んでいた土間に手をつき静かに立ち上がると、その人物は秋山の足の下の芦川を見た。

「まず、その人を解放してください」

 砥上家の家族構成は3人。砥上逍遙とその両親。そして彼らに手を貸した秋山守人。目的はこの4人だった。なのにいざ箱を開けてみると、5人目がいたとは。

 用心深く背中を見せないように秋山との間に立つ人物に、砥上はまた違和感を覚えた。しゃがんでいた時に感じたよりも背が小さい。それに姿だけでなく、声もトーンが急に変わったりして変だ。それとも精霊を感じさせないこの場所が自分の感覚を狂わせているのだろうか。

「すでに危険ではありません。彼はただの人間です。そうですね」

 秋山の足の下になったままの芦川は大きく頷いた。「本当だ。さっきのは、当直の相方の仕業だ。当番は二人で一組で、俺たち一般の職員は必ず陰陽寮の職員と組まされる」答えてから、芦川は気づいたように付け加えた。「寒田は、あの式神の陰陽師はどうなった」
 先ほどの秋山の問いを繰り返す。

「始末しました」

 短い返答にゾッとする。自分に式神が付けられていたのを初めて知ったからなのか、答える青年の表情が非現実的だったからかはわからない。だがその短い返答に込められた人間の命への関心の無さ。

「秋山君、私からも頼む。君の心配はわかるが、何もかもが敵じゃない。味方かもしれないんだ」

 芦川の恐怖が伝わったのか、解放を求める遥希をメガネ越しの瞳が見た。光の加減か、心なしか赤っぽく見える。それも深い、血のような赤だ。

 思わず秋山は舌打ちをしそうになったが、流石にそれは堪えた。砥上の呑気さは筋金入りだ。
「わかりました。でも、急に動かないでくださいよ。俺は今、気が立ってるんです」
 とはいうものの、年上を敬う言葉遣いは忘れない。

 言われた通り秋山の足が完全に背中から離れ、さらに地面に降ろされるのを待ってから芦川は体を起こした。念の為両手をあげてみるが、砥上が手にした猟銃が自分に向けられることはなかった。

「芦川さん、手を下ろしてください」
「この子達は危害を加えたりしないわ」

 背後の砥上夫妻の穏やかな声に、手を下げる。
 秋山が深く呼吸をする。流石の彼も疲れているのだろうか。
 不思議なことに、この状況下にあって一番緊張しているのが秋山であって、当事者である砥上一家でないことに湖澄は気づいた。

 自分を観察するように見つめる青年の姿の湖澄と目が合った瞬間、秋山に纏わり付いていた疲労の影が姿を消した。

 一瞬で緩んだ緊張感を取り戻したのだ。このタフな精神力。4分の1といえど魔界人の血を引いているだけある。

「で?」
 夏だというのに黒いパーカーのフードを被ったままの男を、秋山はみた。影になった顔は細面で、あまり良い印象が浮かんでこない。

 その目線に気づいたのか、相手はフードを後ろにして顔を露わにした。

「私のことは瀬保と呼んでください」

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