きんの砂〜3.預カリマス(1)
芳名帳を閉じ、旗持慶子は眼鏡を外す。歳のせいで眼鏡が合わなくなってきたようで、長く使っていると目が辛い。
今日の分の芳名帳には、あの鮮やかな髪の少年の名前はなかった。
10日間という期限付きの屋敷の開放。公開初日は土曜日でもあったことから日曜日の夕方まで、地元の名士の屋敷を一目見ようとたくさんの人が訪れた。だが当然ながら見学者は日を追うごとに少なくなる。特に平日はまるで街の人間が消えてしまったかのように寂しさだ。皆それぞれの生活がある。多くは会社に出かけ、子供を持つ女性はその世話と家事に追われる。わかってはいるが、急に訪問者が途絶えてしまうとやはり寂しくなる。
そんな中でも、あの少年は欠かさず通ってきていた。学生服のまま屋敷の中を通り、最後に庭の片隅の茶室に入る。屋敷の開放時間終了間際までそこにたたずみ、黙って帰っていく。
茶室で夫の書と向き合う姿に慶子は、この屋敷に取り残された自分を重ねていた。
旗持瀞路という大きな存在が残した水溜まりの中で、必死に上を向き自分で息をしようとしている小さな存在。
だが今日は来なかった。
もう来ないのだろうか。
足掻くことをやめてしまったのだろうか。
*****
シャッターを上げ朝の冷たい空気が店内に入り込むと、花穂の体は小さく震えた。
「寒いわね」
引き戸を閉めてもガラスが破られたところから風が入ってくる。
「ひとまず塞いでおかないと」
捲る者がいなくなった店主席のカレンダーを外した亞伽砂が、持ってきたセロテープを彼女の手に置いた。
予定では次にこの店を開けるのは明日の日曜日のはずだったが、昨夜荒らされた店内をそのままにして置けないと、今日も来ることにしたのだ。かつては毎週末会っていた恋人の高春ともあれ以来連絡を取っていない。おかげで自分の自由に使える時間が増え、こうした急な予定変更にも対応できる。彼と過ごす時間も嫌いではなかったが、いつも干渉されているような窮屈感は常に感じていた。
本をあるべきところに返すまでという期限付きではあるものの店を継ぐことを決め理由の一つには、そうした自由な時間が増えたせいもあった。もっとも亞伽砂の中では彼はすでに恋人枠から外れているが。
「俺、上に行ってじいちゃんの部屋を開けてくるよ」
パソコンを立ち上げた公宣が告げて店から出ていった。すぐに階段を踏み外しかねない足音が上階へと駆け上がっていく。
「浮かれてるわね、あいつ」
昨夜ひとまず拾い上げておいた本を手に取った花穂が呆れたように笑う。公宣はまだあの祖父の部屋を見ていない。
「やあ、やっと明るい時間に入ることができた」
二人して弟の子供っぽさに笑っていると、声とともに得馬が現れた。
「おはようございます」
「随分早いのね」
大袈裟な表情をする花穂にくすりと笑い「手伝うって決めたからね」と彼は返す。公宣の子供っぽさを笑ったばかりなのに、得馬の対応の前では自分も十分子供っぽいと気づいた花穂は「ありがたいわ」とすまし顔で肩を竦めた。彼女は冗談や楽しいことが好きなのだろう。亞伽砂も交えて話していると、どちらが姉なのかわからなくなる。メンバーが足りないことに気づき得馬が店内を見渡す。
「公宣君は」
「上に行ってます」亞伽砂が店主席の天井を斜めに横切る階段を指差した。
「最上階は、祖父が時々寝泊まりしていたみたいで」
時々と控えめに伝えたものの、見ればすぐに常駐し生活していたと気がつくだろう。
「僕も後で上がってもいいかな」
学生時代に初めて訪れた時から、この店の構造が気になっていた。理由はやはり店内の天井に設けられた明りとりだ。特に建築に興味があるわけではないのだが、天井を突き抜けてトップライトが落ちてくる作りが面白い。上のフロアを見てみたいし、できれば屋上にも上がってみたいと思っていた。
「後でと言わず今すぐでも」
と亞伽砂がいいかけたところで、先ほどと同じように階段から騒がしい音が聞こえてきた。
今度は降りてくる音だ。
「亞伽砂、花穂姉」
両手をついて犬のように狭い入り口を通り、文字通り公宣が店主席に転がり込んできた。
「これ見てよ」
息を切らし立ち上がったところで、店先に立つ得馬と目が合う。
「おはよう」
「お、おはようございます」
先に声をかけられて、思わず体を屹立させる様子に花穂が吹き出した。
「なに、その反応」
「いいだろ、別に」
「それよりどうしたの」
長姉とのやりとりをニコニコと眺められてますます顔が赤くなるのを感じた公宣は、亞伽砂に促されて手にした物を差し出した。
「遺言だよ」
筆文字で「遺言状」と書かれた白い封筒は、テレビやドラマで見る遺言状そのものだ。
「どこにあったの、これ」
伸びてくる花穂の手を避け、亞伽砂に渡す。
「仏壇の引き出し。ばあちゃんに線香あげようとして開いたらあったんだ」
仏壇とはおそらく、位牌が置かれた小さなキャビネットのことだろう。祖父は家から持ってきた妻の位牌を、綺麗な風呂敷を敷いたキャビネットの上に置き線香と水を供えていた。以前に姉妹で来たときは位牌の確認だけしたものの、本格的に片付ける時に持ち出せばいいと思いそのままにしていたのだ。
部屋に上がりまず祖母の位牌に手を合わせるとは、お婆ちゃん子だった公宣らしい。
亞伽砂は手にした白い封筒を見た。口は糊付けされている。
「開けてみようか」
「いや、それはできないよ」
花穂の提案に得馬が待ったをかけた。
「遺言状は検認しないで開けると効力がない、つまり無効となるんだよ」
さらにもし検認しないで開封すれば、5万円以下の罰金が課される場合もあるとも付け加える。
「検認ってどうするの」
3人にとって遺言状を手にするのも初めてならば、検認という言葉を耳にするのも初めてだ。見つけた公宣は、勝手に持ってきてしまったことさえ罪になりそうなくらい顔を強張らせている。
「家庭裁判所で所定の手続きをして公開するんだと思ったよ」
「詳しいのね。もしかして経験あるの」
腕を組んで感心する花穂にまたしてもにこりと笑いかけて、「昔何かの本で読んだんだ」と答えた。
「まあ、一時的とはいえ君が継ぐことにしたんだから、持っていてもいいんじゃないかな」
頷く得馬に、亞伽砂も頷き返した。中に何が書かれているか怖い気もするが、鍵を託してくれたのだから、いまさら店を取り上げるようなことはしないだろう。
さらに得馬は嬉しいことを教えてくれた。
「それからこのガラスだけど、知り合いに相談したら業者を紹介してくれて、今日中には見に来てくれるらしいよ」
引き戸の割れたガラスの部分は、破片が綺麗に取り除かれて白い厚紙がテープで止められていた。得馬の知り合いとは、もちろん笠置のことだ。店の話をするのは躊躇ったが顔の広い彼のことだ、すぐに業者を捜してくれると思ったのだ。案の定ものの5分で土曜日でも対応してくれる個人の業者を教えてくれたが、同時に店についてもあれこれと訊ねられた。
「そのことで聞きたいんですけど」
遺言状を傍に置いたバッグにしまい、亞伽砂は改めて得馬に向き直る。
「昨夜の小柳さんの見た人の車、どんな車だったか覚えてますか」
口にした本人もだが、公宣や花穂までも張り詰めたような表情をしているのに得馬は気がついた。
「赤のSUVだったけど」
その車が中山家のものでないのは、昨夜駆けつけた時のセダンを見て確認済みだ。
「その車なら知ってるわ」
「お、俺も」
困ったように亞伽砂は二人を見た。
「その人と私、この間まで付き合ってたんです」
聞かされた得馬も、やはり困ったような顔をした。警察を呼ばなくてもいいといったのはきっと、何処かでその彼の仕業だと確信していたからだろう。
「その、もしかしてこの店が原因で……?」
訊いてもいいものかどうか戸惑いながらも、得馬は口にした。むしろこの流れを無視してどう反応したらいいのかわからない。
「彼にとってはそうかもしれないけど、きっと私は既に駄目だったんだと思います」笑って亞伽砂は続ける。「でも、よかったんです。すっきりしたし、決心も着きました」
「まあ、私としてもあんなのを弟として迎えたくはなかったし、安心して家を出られるわ」
本人よりもよほどすっきりした様子の花穂を驚いた表情で得馬が見た。
「家を出られるんですか」
「結婚するのよ。入籍後は旦那の赴任先に引っ越すから」
この店に来るのも、おそらく今日明日が最後だろうと付け加える。
「だから早く仕事を始めましょ。私と亞伽砂は店の片付けとパソコンを見るから、男どもは上を片付けてらっしゃい」
なら確かにいつまでも店先で世間話をしている暇はない。
「小柳さん、裏から入ってもらえますか。その方が上がりやすいんで」
店主席の狭いスペースに立つ公宣に教えてもらい、得馬は隣家との間の狭い路地へ木戸を開けて入った。アルミのドアを開けると広い空間にダイニングテーブルが置かれている。
「その袋、持ってきてください」
言われた通り、店主席の裏側の狭い出入り口から出てきた公宣にテーブルの上に置かれた紙袋を渡す。中身は雑巾やガラス掃除用のスプレーなどだ。2階へは靴を脱いで上がるらしく、簀に用意してくれたスリッパを履く。
「来てくれて助かります。俺掃除苦手なんで」
「僕も得意な方じゃないから、期待しないほうがいいとおもうよ」
公宣の後について階段を上がりながら得馬は、先日の笠置夫妻との部屋の掃除を思い出していた。
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