静かすぎる森に、彼らの不安の心が沁み出していく
長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉
第1章 6、暗き森②
ひとり小屋の中に残された砥上の耳に、パチパチと炭になりつつある木の弾ける音が聞こえていた。
立ち尽くす心は重く、息が詰まるほど胸の中は不安だった。
魔界人である秋山に両親を預けるのが心配ではない。むしろ彼になら安心して預けられるくらいだ。ひとり寂しく小屋に残されたことが原因でもない。逆にあの狗鷲への過程を両親が見なくてもいいのなら、衝立を作れと言われたら嬉々として作ってやる。
予測不能の事態に陥ってしまっている現状への不安か、父から知らされた一族に対する不安なのか。
生来不安とは無縁の性格のせいか、たまに感じるこの感覚はしばらく病的について回る。
彼も、秋山も普段からこんな感覚を持っているのだろうか。だからあれほど用心深いのか。
やがて秋山と両親の出ていったドアから目を離すと、深呼吸をして心を落ち着かせた。
”自分を信じる”か。
自分の正体がわからない。人間という種の中で生きてきて、これほど不確かで拠り所のないものはない。
それでも、自分は自分でしかない。
”誰か”でも”何か”でもない。”俺は”というために自分をと向き合うのだ。
服を脱ぎ片膝を立てしゃがみ込む。
目を閉じて、集中。
思い浮かべるのはいつも、あの時の空の様子だ。
夢としてではなく、初めて自らの翼で空を飛んでいると自覚した月夜。
胸の中に風が吹き、大きな力に全身が包まれていく。やがて研ぎ澄まされた神経にこの世界と、この世ならざる世界のモノたちの息遣いが聞こえてきて、肉体の組成が始まる。
はずだった。
いつもと違うことに気づいて、砥上は目を開けた。
心には風が吹いた。体の中で生まれた風が飛び出して、周りで旋風が踊るのがわかった。
だがその先に現れる景色がいつまで経っても見えてこなかった。
どこまでも続く雲が走る空とその先で交わる海原、緑豊かな浮遊島。その世界を俯瞰して初めて鳥へと変わるのだ。
心に生まれた風が体から外へ広がるのは感じることはできたが、そのあとはどこかへと霧散してしまった。あの景色を呼び込むこともなく、風も帰ってこない。
瞑った目はいつまでも暗いままで、目を開き肉体の目で改めて見てみても、世界は何も変わっていなかった。
首を巡らし、その場で小屋の中を見渡す。
狭く古く埃だらけの小屋の中に別段変わった様子はない。
いや、変わっていないのがおかしいのだ。外の世界ではなく、自分の眼が。
これが不安の原因か。または不安がこの状況を作ったのか。どちらが正解なのかわからない。
ただひとつ言えることは、この森は静かすぎるのだ。
「肩の力を抜いてください。そう、左手は添えるだけです」
避難小屋から外に出るとすぐに、秋山は銃の使い方を遥希に教えた。規制の厳しいこの国では欧州のように個人で銃を扱う事はない。生まれてから死ぬまで、ヤクザと法的執行機関以外の人間がナイフ以外の本物の銃火器を目にする事はまずない。そんな現状にもれず、銃把を手の平に押し付けられた遥希の腕も震えていた。
「当てなくてもいいんです」
手慣れた様子で安全装置を外し構える青年は、静かに声を掛ける。夫や自分への態度はあくまで丁寧で優しいものだったが、レバーの塊のような液体を飲み干す姿がゆき子の脳裏から離れない。その見た目と優しさ、流暢な日本語に隠されてはいるが、彼は紛れもなく吸血鬼という魔界の人間なのだ。これまで夫の過去を知り行動を共にし普通の人間ではないと思ってきたが、秋山というこの青年からしたらまるっきりただの人間だった。
息子に抱えられ移動する直前に踏み込んできた「追手」。実際に目にしたのは初めてだった。「何かに追われている」という夫の強迫観念めいた行動を長い間共に続けてきた。
息子と秋山に話した通り、逃げ続ける生活は奇妙ではあったがそこに不満はなかった。
自分が選んだのだ。彼と共に生きる道を。
家族も過去も捨てて。
だから息子が生まれてあの家に落ち着くようになった時は、幸せだった。
捨てたはずの過去をまた作り出せる場所ができたのだ。
なのにまた、失ってしまった。
これまではただの強迫観念だった「追手」が、実態を持って踏み込んできた。
長く黒い筒状のものを自分たちに向ける彼らの姿が脳裏から離れない。
静かな闇の中に出たおかげで、ゆき子の思考は現実を整理しつつあった。山小屋についてからの会話、秋山守人と名乗る息子の友人。夫の危惧の現実化。小屋に残された息子。
部屋での、鳥の産毛に包まれたような逍遙の姿。あれが変身した姿なのだろうか。まるで人間ではないような―。
その時小屋の扉が開いて、砥上が姿を現した。
ランプの明かりをバックにして立つ姿は、人間の形をしていた。
外への扉を開いた時、秋山が父の遥希に銃の扱いを教えている声が聞こえた。明かりのない外は暗く、山の空気は冷たかった。
「逍遙」
ずっと心配していたのだろう。すぐに母のゆき子が気がついた。彼女の声に遥希も視線を向ける。
「逍」
母親に笑いかけたつもりだったのだが、この暗闇ではきっと見えていないに違いない。もう一度呼んでくれた返事の代わりに、恐る恐る手に触れた指を握り返す。
「秋山君」
落ち込んだような声で友を呼ぶ彼の姿は、元の人間のままだった。もちろん服だってしっかり着ている。
「どうしただ」
秋山は父の手に添えていた手を離し、彼がしっかりと銃を持っていることを確認してから歩み寄った。
「この山おかしいよ。変身できない。それに、静かすぎる」
光が無くても、砥上には秋山の怪訝な表情がはっきりと見てとれた。
「精霊? みたいのが何にも出てこないし」
「精霊?」
ゆき子が聞き返す。
「そう。変身する時、現実世界と霊的世界みたいのがごちゃ混ぜになるんだ」
夢と現の狭間にいるようなあの感覚は、とても言葉に表せない。
狗鷲の姿になる時は人間の姿を捨てるあたりから、砥上の周りにはいつも五月蝿いくらいの有象無象の存在が出現してくる。変身後の気持ちの持ちようでその認識は如何様にも出来、普段は気にも止めないでいるが、今夜は違った。
それとも場所のせいだろうか。
人の姿を捨てようと心に描く狗鷲の姿になろうとも己の肉体は変化せず、変化と同時に出現する精霊達も見えない。
表現するならばここには何もなく、何かからも閉ざされているのだ。
「落ち着け。そういうモノは気まぐれだ」平静なフリで答えるが、言われて初めて秋山も山の静けさに気がついた。
この島の植生は主に赤松の林と笹をはじめとする低層植物だ。主体が赤松といっても本数が多いというだけで他の木がないわけではない。それほど広くない島ではあるが緩やかな水瀬を渡り鹿や猪といった動物も周囲から渡ってくるだろう。たとえ動物が定住していなくてもそれらが訪れることによって動物層もそれなりの広がりがあるはずだ。つまり小動物や昆虫、爬虫類や両生類といった小型の生物だ。これほど木が茂っているならばおそらくそれらを餌とする梟や木兎といった肉食性の鳥類だっているはずだった。
だが小屋を包む森からは虫の鳴き声さえ聞こえない。
それこそ蟻の歩く音さえも。
「うん、そうだね。静かすぎる」
不安げに身を寄せる妻の背に手を回し、遥希も繰り返した。
「前もこんなだったの」
砥上も森を見渡す。
鳥にならなくても夜目は聞くが、その瞳はただ暗い森を視るばかりで生命の息吹を感じる事はできない。
その時ふいに、秋山の姿が砥上とゆき子の前に現れた。瞬間移動ではなくただ単に吸血鬼の通常能力として素早く動いただけなのだが、驚いて息を止めた母親に砥上は寄り添う。
「誰だ」
暗闇に秋山が声を掛けると、森の中に点在する大きな石の影から小さな灯りが出てきた。
手に猟銃を持っている。両手で構えてはいるが、その銃口は下を向いていた。
「島の管理局の者だ」
額に装着するタイプのライトをつけている。声からすると遥希ほどの歳の男だろうか。彼は今度は手に持つタイプのライトを点けてから、額のライトを消した。
「君たちこそ何をしているんだ」