パックとはいえ砥上は初めて、血液を口にする秋山を見た。
長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉
第1章 4.金の鉤爪銀の斧⑤
アパートの敷地から部屋の入り口までの間に、砥上は数回の奇妙な感じを受けた。誰かに見られているとかではなく奇妙な違和感。例えば、細い蜘蛛の糸が頬に触れるような。
「それ位はわかるんだな」
玄関に入りドアが閉まるの待っていたように、彼は口を開く。あまり外では会話をしたくないのだろうか。
「ちょっとした仕掛けだ。用心のためにな」
砥上はバランスを崩さぬよう、ゆっくりと秋山を上がり端に座らせた。
「用心深いよね」
「ゴタゴタに巻き込まれたくないだけだ」
体の外よりも内側のダメージの方が強いのか、しばらく腰をおろしたままの体制で肩で息をしている。
「でも、あれで来るとは意外だったぜ」
あれとはもちろん、鳥の姿のことだ。
「秋山君の教育の賜物っていってよ」
いざという時は平面を走る人よりも立体的に飛べる鳥の姿の方が動きやすいし、なにかと重宝すると思ったのだ。それにシェザーは完全な鳥になった姿を知らないのだから、割と簡単に近くに行けると思ったのだ。もちろんあの美術館を包む結界を見たときは、流石に考えが甘かったと反省もしたが。
「だな」
落ち着いたのか溜息を落として靴を脱ぐと、秋山はゆっくりと立ち上がる。壁に手をついて、「入って来いよ」と砥上を招き入れた。
「んじゃ、おじゃまシマス」
外観は古い木造のアパートで、秋山の部屋は一階の4つあるうちのひとつだった。
「あの、ここは裏口?」
すぐ左手にミニキッチンのシンクがあり、IHコンロの奥の壁際に冷蔵庫が収まっていた。
「玄関だ。見てわかれ」
「だよね」
ドアは確かに玄関ドアだったが、入ってすぐにキッチンがあるせいででつい勝手口だと思ったのだ。
リビングは、テーブルを置くには広さが足りないダイニングキッチンと空間を仕切るガラス戸を開けた先にあった。
昼近いというのに暗い。窓を巨大な遮光カーテンで遮っているのだ。
リビングのソファ横に置かれたサイドテーブルのリモコンを秋山が手にすると、光の侵入を拒んでいた巨大なカーテンがゆっくりと上に上がっていく。
「すごいじゃん」
遮光していたのはカーテンではなく幅広のロールスクリーンだ。窓枠よりも高い場所に取り付けられていて、幅も広い。昼間の日光を完全に遮断するためだ。
「昼間寝る時にはな、どうしても光が邪魔になるからよ」
驚いたのが嬉しかったのか、見慣れた八重歯が顔を出す。単に交代勤務者というだけではない。吸血鬼でありながら人間でもある彼にとって、夜間の代わりの昼間の睡眠は重要なのだ。
ロールスクリーンの下はレースのカーテンがあった。組み合わせとしてはチグハグだが、彼らしい。
掃き出し窓の上3分の1ほどを残してロールスクリーンが止まった。
軒下に面した草だらけの小さな庭からの光が、レースのカーテンを通り柔らかくなって室内に入る。
庭の垣根の向こうに、見慣れた車のテールランプが見えた。
この部屋は自分達の車が止まる駐車場の真裏にあたるのか。
いつのまにかエアコンも稼働を始め、生暖かい部屋の空気が動き始める。
「何か、外見と違うね」
外から見た限りではザ・和風という感じの古臭さがあったが中はリフォームされ、床はフローリングに壁はクロス張りとなっていた。それに棺桶もない。窓際のコーナーから隣室との境の壁に沿って、ベッドが置いてある。
「格安だ。狭いけどな。一人じゃ十分だぜ」
ソファに腰を下ろすとしんどそうに深呼吸した。
「そうだ。救急箱はどこに」
「洗面台の下だ」
ソファの背もたれに頭を預け左腕を伸ばしたものの、そちらの方に行こうとした砥上を呼び止める。
「いや待て」
冷蔵庫の隣の引き戸に気づいた砥上は足を止めた。
「あそこの下にちっせぇ冷蔵庫があるから」と掃き出し窓の右にしつらえた収納棚を指す。サイズ的には押し入れだった感じだ。
「そこに入ってるモンを持ってきてくれ」
言われた通りに収納棚を開けると小さい冷蔵庫があり、中には赤い液体が充填された真空パックが数個入っていた。
血液だ。
忘れていたが秋山は自称吸血鬼だ。これまでは吸血行為も見たことなく、深く考えずに彼の話を鵜呑みにしてきたが、赤い塊を目にして広がった小さな衝撃に一瞬息を呑む。
本当に吸血鬼だったのだ。
そっと後ろを伺うと、ソファに半ば横になり額に手を当てている彼の姿があった。本当は、ロールスクリーンを開けるのも辛いのではないのだろうか。その証拠にレースのカーテンによって弱められた光は秋山にかかる事なく、ソファの足元に止まっている。
向き直ると、砥上は無造作に保管されたその一つを手に取った。表面にセロテープで小さなストローが貼り付けられている。
人の血も血液パックも初めてみるが、その色は鮮やかな赤ではなく黒味がかった暗い色だ。
何事もなかった風に元のように収納棚を閉めるとソファに歩み寄る。
小さな衝撃はすぐに消えた。
自称ではなく彼は吸血鬼であり、正直に姿を晒していた。力なくソファに横たわるこの部屋の主人は、ただの秋山守人だ。
「はい。大丈夫?」
手渡し、ソファの縁に腰掛けた。
「何とかな」
ストローを外して突き刺すと、それを咥える。
「ナンかいいたそうだな」
血を吸い込む自分を見ている砥上の視線に気づき、秋山はストローから口を離した。
いつになく、無表情な砥上の気持ちが読めない。血液パックを取りに行った時もこちらを見ていた。吸血鬼と公言はしていたものの、彼の前ではそうした行為をしたことは無いので、話半分で聞いていると思っていた。
「別に」
彼が本当に吸血鬼だったという衝撃は、ついさっき受けてしまった。
ただ、不思議なだけだった。見た目も満月期以外の生活も普通の人間と変わらないのに。やはり4分の1といえども吸血行為をする種族であることに変わりなく、煙草を吸うのと同じように血液を吸う。
立ち上がると、先程行きかけた洗面所に行き救急箱を探した。
ジュースのように血を飲む姿を見ても何も感じないのは、おそらく自分も似たようなモノだとわかっているからだ。
ただ、似たようモノというだけで、同じじゃない。
引き戸を開けた時、その正面にあった鏡の中からこちらを見る自分の姿に砥上ははっとさせられた。
鳥になった自分の姿を部屋の姿見で見ても何も感じないくせに別の場所でこうして鏡を見たとき、一瞬どきっとする。鳥の姿でないことに驚くのか、それとも人の姿でいることに安堵するのか。秋山の前ではすっかり鳥と人間の姿と使い分けに慣れたような顔をしているが、いまだに心のどこかであの姿を否定しているのか。
俺は人間なのか、鳥なのか。
鏡の中の自分から目を逸らし、洗面台の下を開けた。
バスタオルとフェイスタオルがそれぞれ数本ずつ揃えて収納されていて、救急箱はその横に置かれていた。
「傷の手当てって、先にシャワーとか浴びた方がいいの」
箱の中はお世辞にも充実しているとはいえなかった。あるのは頭痛薬と包帯・ガーゼくらいで、消毒薬もない。
「いや、必要ねぇよ。あ、濡れタオルを頼む」
振り返りもせずに訊いてみると、部屋に戻った時よりも幾分力強くなった声が返ってきた。指示通りフェイスタオルを濡らし部屋に戻ると、秋山はちょうどTシャツを脱ぐところだった。血液パックはすでに空になり、ゴミ箱に捨てられている。
「すげ、生きてるみたい」
左肩に受けたはずの傷口の出血はすでに止まっていた。さらに傷口の端がピンク色になり閉じ始めている。それもまるで修復するバクテリアがいるみたいに目に見えてわかる速度で。
「生きてるんだがな」
答えながら秋山は救急箱から大きめのガーゼを取り出すと、一緒に入っていたハサミで適当に切り始めた。
「自己再生かい、えげつな」
「うるせ。自分で充ててるから、テープ貼ってくれ」
傷口を覗き込んでいた砥上は、急いで救急箱を置いて固定テープを探した。秋山を介抱するためにきたのに、まるで役に立っていない。
「魔界人って、みんなこうなの」
表側の傷が終わると、背中側にまわり今度は砥上がガーゼを傷の大きさに合わせて切った。さすがに自分の後ろ側は見ることが出来ない秋山は、おとなしく砥上に任せている。
「俺は吸血鬼の特性があるからな。大怪我をした場合はこれに頼るしかねぇんだ。ま、こうして実際助かってるんだから、一応は魔界人の血に感謝すべきだな」
とはいうものの、その口調からはあまり感謝の意を感じられない。
ガーゼをテープで固定した後、「ありがとよ」と流れた自分の血を濡れタオルで拭きながらニヤリと笑う。顔色もだいぶ良くなってきたようだ。
「お姉さんいるんだね」
魔界人と聞いて錐歌の話を思い出した。
「うんと歳が離れたな。親父の再婚相手の連れ子なんだ。まあ、歳が行き過ぎて連れ子って柄じゃねぇな。単純に義理の姉だ」
これまで生活圏にさえ入れてくれなかった彼の家族の話を聞くのは、もちろん初めてだ。
「秋山君の親はさ、どっちが魔界人なの」
「母親」
そう答えてソファから立ち上がる。血液を摂取しただけで足のふらつきもなくなっているとは、すごい回復力だ。
「父親は元は東北の方の大学の教授でな」
歩きながら収納棚を開け、代わりの服を出して袖を通しながら話を続ける。さして嫌がる風もなく話をするということは、これまでただ単にこうした話しをする機会がなかっただけだと、聞いていて気がついた。
そういえば、いつも自分のことばかりに付き合わせていた。
「宗教や魔界関係の研究をしてイギリスに渡り、その関係で母親と会ったらしいぜ」
現在、公としてこの国に魔界人はいない事になっているし、国としてその存在は容認されていない。アマテラス神が降下した地として、神のいる国に異界の事象があってはならないからだ。しかし他国では実際に魔界人が存在し、魔界の生物も確認されている。魔界の関係を研究をするのなら、必然的にこの国から出なくてはならない。
「じゃあ、お母さんが魔界人と人間の」
少し、言葉に迷う。秋山は4分の1だから、この場合はハーフでいいのだろうか。
「ミックスだ。母親の家は元は名門でな。けど母親の親、つまり俺の魔界側の爺さんが人間の女と一緒になったことで、家の格が落ちたらしい。一族からはかなり非難されたらしいが、もともと実力者であったこともあって大して問題に感じてなかったんだろうな。おかげで俺も何の不自由なく暮らしてきたぜ」
黙って話を聞いていた砥上の前に立ち、両手を出す。
救急箱と体を拭いたタオルを寄越せというのだろうか。
大人しく手渡すと、洗面台の方へ向かった。
「じゃあ秋山君て、帰国子女なんだ」
ソファから離れ、砥上も秋山の後を追った。洗面台の横、透明ガラスで緩やかに仕切られたバスルームとリビングとの壁の狭い隙間にある洗濯機に血のついたタオルと一緒にTシャツも放り込む。穴があいてもう着る気もないが、ゴミに出すにも血のついたままではショッキングすぎる。
大家は年寄りだがセンスがいいこの安いアパートを、この地に縁もゆかりもない自分が借りられたのは幸運だと秋山は思っている。場所も市街から外れていて周囲の民家は年寄りばかり。そこそこ愛想良くしていれば嫌なことにも関わらずにいられる。
「まあな」と手際よく洗濯機に洗剤をセットした。
それにしても死闘の末に血液パックで活力を補充する吸血鬼を前にしての質問が帰国子女かどうかだなんて、なんて平和な話だ。
戻り際、洗面台の鏡に目をやる。
顔にもシェザーに爪を立てられた傷がある。
「その目どうしたの」
瞳からはスミレ色が消えかけ、いつもの様にブラウンに近い色に戻ろうとしている。
「魔眼だ。昔、先祖はこの目で家を大きくしたんだと」
もともと魔法も魔界も魔界人にも興味のない彼はキョトンとしている。
「つまり、血が薄くなっているはずの俺に超強力な目が付いてきたんだよ。その力をコントロールするために、魔界の爺さんは遠い先祖の魔名を俺の魂につけた」
それがオリヴィエッタというわけだ。
「アイリスが、吸血鬼は普通魔法は使わないって」
「ああ。苦手だ。けど魔力がある奴ぁ大抵使う」砥上が魔界について無知なのをいいことに、揶揄ったのだろう。「ま、俺が使うのは簡単なやつだがな。幸か不幸か、この魔眼のお陰で中途半端な割にちぃとばかしの魔力があるからよ、爺さんに稽古をつけられた」
「メチャクチャ世話になってるじゃん、爺さんに」
「だな」
「羨ましいよ。うちは親戚がいないから。どっちの親とも会ったことない」
また秋山はリビングに戻った。その後を子犬のように砥上がついてまわる。本当に、彼が鳥に変身するのは間違いではないのかといい加減思い始めてきた。
「両方とは珍しいな。地元だろ」
「さあ。今のところも建て売りだし。免許証じゃあ本籍になってるけど、二人はどこからきたんだろ。聞いたことないな」
答えて砥上は、自分が両親や彼等の出自について何も知らないこと、そしてこれまで自分のルーツに対して疑問も持たずに生きてきた事実に少なからず驚いた。