砥上家、急襲される。
長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉
第1章 5、砥上家③
砥上逍遥は困っていた。
気がついたら変身して空を飛んでいたので、急いで帰ったところだった。
まさか人間に戻る途中に、母親が部屋に入ってくるなんて。
「ちょ、いきなり開けないでよ」
左手を伸ばし、起きた時のままベッドから垂れているタオルケットを掴んで引き寄せながら立ち上がった。
「ご、ごめんなさい」
信じられない光景を目撃してしまった母親は後退り、ドアを閉める。それからドア越しに「着替えたら、下に来て」と声をかけた。
とうとう知られてしまった。
しばし呆然とし、血管が頭の中でドクドクと脈打つ音を彼は聞いていた。首筋から耳の下にかけてぼうっと熱くなり、胃の辺りがキュゥっとなる。
いつかはバレると思っていた。秋山からもらったペンダントがあっても、夜中に2階の窓から何度も出入りしたりやたらと朝早くからシャワーを浴びたりしていたら、同じ家に住んでいる家族なら何かしら気づくはずだ。
その時のことを想像していなかったわけじゃない。咎められてもなんとか誤魔化せると思っていた。
少なくとも人間の姿であるならば。
しかし母親に見られた。最後の方だったが、巨大な鳥の姿を捨て人間に戻る場面を。それとも俺の場合は、鳥から人間に化けるの方だろうか。
だいたいいつの間に変身し、飛んでいたのだろう。秋山の部屋から戻り、シャワーの後は眠っていたはずだ。ひどく疲れて、身体中が痛かった。魔法陣の結界を破る際の魔法陣からの抵抗を受けたせいではないかと、彼は言っていた。
それに自分でも仮眠の時間はほんの2、3時間のつもりだったのに気がついたら空の上で、急いで戻ってきたらこの事態だ。
なんと言おう。なにを話そう。どう説明しよう。
俺が彼らの息子であることを、信じてくれるだろうか。
恐々とした足取りで、そっと階段を降りる。リビングでいつも鳴っているはずのテレビの音が消えていた。
2人はなにを話しているだろうか。
動揺する母親にそれを宥めようとする父親の怒鳴り声。は聞こえない。
想定してた場面とは違う場面になりそうだと感じたら、もっと緊張してきた。
最後の段を降り、廊下との仕切りである引き戸が開かれたリビングに声をかけた。
「あの、話があるんだけど」
俯いていた母親が驚いたように顔をあげ、父の側に寄った。
普通の反応だ。
安心するも、胸が痛かった。
それはつまり拒絶、恐れ、否定。
息子としての存在の否定だ。
「いつからだ」
泣いていたのか、鼻を啜る母親とは対照的に父親の声は重い。
「いつから鳥に変化出来たんだ」
父親の強い口調に母親が宥めるように背中に手を当てた。
「えと、4……月くらいから」
ちょっと待て。展開がおかしい。母親の動揺はわかる。誰だって自分の息子が変身したら泣くか叫ぶかするしかない。なのに父親のこの反応はなんだ。「いつから」ではなく「お前は何者なんだ?」が正しいんじゃないのか? 彼の反応はまるでこんな場面を知っているようじゃないか。
「なぜもっと早く言わなかった」
「や、だって信じないでしょ。普通」
「普通の家族は家族を信じるものだ」
意外だった。父親はもっと口数が少なく、優しかったが感情をあまり表に出してこなかった。それこそ家族論なんて一度も口に出したことはない。
「俺、普通じゃないの」
「お前は普通だ。普通の、私達の息子だ。普通じゃないのは、私達……父さんの家の方だ」
言っていることがめちゃくちゃだ。
「わかった」
階段を降りた時の緊張は消えていた。自分よりも父親の方があきらかに動揺しているのが見て取れる。
動じていないんじゃない。彼は動揺し、興奮し、悲嘆に暮れているのだ。自分が初めて鳥になり、秋山に会った時のように。
当たり前だ。これが普通の人間の反応だ。だがそれ以外に、父親は何を知っているのか。
「じゃあ座ろう。ちゃんと話すから」
砥上は両親を落ち着かせるように静かに促した。
母親はまだ、不思議そうに父親の影から見ている。だがもう、否定したりはしていないようだ。驚いてはいるようだが、やはり父親のようにどこか予感めいたものがあるのだろうか。彼女にはこの状況がどう見ているのだろう。
「おい、そこに誰かいるのか」
その時前触れもなく、聞き慣れた友人の声がした。
秋山だ。すぐ近くにいる。
驚いた砥上は頭の上の方を見た。彼なら飛んでくると思ったのだ。だがもちろん部屋の中には自分達家族以外誰もおらず、頭上には古い家の天井があるだけだ。それにいまの声は両親にも聞こえたようだ。二人とも急に入ってきた他人の声音に驚いてキョロキョロと首を巡らせている。
「おい、無事なら返事をしろ」
次の少し焦ったような声に、実は自分の胸元から出ていることに砥上は気づいた。
「お、親が」
声は胸元のペンダントからだ。いつもは人間に戻ると外しているのだが、両親へ説明しようと急いで降りてきたのでつけたままにしてきてしまった。
「ちょうどいいな」
手にとって話していた金属製のペンダントの表面がいきなり輝き出す。そこから伸びた光が天井に複雑な魔法陣を作り出した。内側と外側の輪が逆回転するその中心部から頭を出したのは、やはり秋山だ。
「おっと、逆だったか」
慌てることなく落ちながら出現した秋山は、猫のようにしなやかな身のこなしで床に着地する。
「初めましてですんませんけど」
砥上とその両親の間に立つ。二人は呆気にとられているのか驚いた顔をしたまま動かない。
「一緒に逃げてくれませんか」
「逃げるってどこへ」砥上の問いを遮り、父親が秋山に詰め寄った。「お前は魔界人だな。お前か、俺の息子に何かしたのは」
「いや、俺男だし」「秋山君違う」思わず口にした台詞への砥神の絶妙な突っ込みに我に返ると、逆に秋山が父親の腕を掴んだ。
「敵が来ますんで、いまは信じてください」
「敵?」と我に帰ったように問い返す砥上に、繰り返す。「ああ敵だ」少なくとも味方でないことは確実だ。
その時”ポンっ!”という音がしてキッチンの床から火が上がった。母親が悲鳴をあげて父親にしがみつく。火は舐めるように広がっていき、IHの調理台の横にある庭に面したガラス窓が開いて人が入ってきた。誰もいないはずの2階からも荒々しい足音がする。ベランダから入ってきたのだ。窓からは4人、上からは感覚からして5、6人といったところか。
「取り囲まれたぜ」
”敵”と呼ぶ連中に背中を向けたまま、秋山が首だけ動かして様子を見る。顔を曝さないためだ。それに倣い砥上も背中を向ける。正面に向き合った、何か言いたそうな父親の視線に思わず顔を背ける。母親はといえば、すぐ近くにある少し外国の血が入っている青年の整った面影に息を止めた。目の奥にヴァイオレットの暗がりを隠し持つ青年の口元から覗く八重歯は、まるで作り物のように鋭く長く恐ろしい。
「お袋さん、しっかり捕まえてろ」
「う、うん」
父親の背中から離れようとしない母親を抱くように、砥上は彼女の背中に背を回し左腕で父親の右腕をとる。それを見た秋山が早口で呪文(スペル)を唱えると、彼の目線の先に大きな魔法陣が構築された。鮮やかでこれまで見た秋山の魔法陣の中で一番複雑な陣だ。
「行くぜ」
場所は遠い方がいい。陣にうろ覚えの座標を組み入れたが、出現して困る場所ではないはずだ。
「いいよ」
掛け声はなかったが、自分の短い返事に対する秋山の頷きを確認し、砥上は両親の体を持ち上げる勢いで力づくで魔法陣の方へ押した。彼に続き秋山も飛び込む。
ダイニングテーブルの向こう側にいた男たちが銃を構えながら近づくその目の前で、4人を飲み込んだ魔法陣は塵のように消えた。そこへ2階から降りてきた男たちも加わる。6人のうち先頭のふたりが奥の両親の寝室とサニタリールームを素早く確認する。狭い家であり目的とする人数も決まっているが、万が一を考えてのルーティーンだ。
「いません」「こっちにもいません」
最後に階段を降りてきた左右雀は狭い家を捜索した部下達の動きに満足してリビングに足を入れる。キッチン部分の火はすでに天井にまで達している。
この家の家族は3人だけ。後一人はシェザーが欲しがっていた半端魔人だろう。
逃げたのか。こちらの動きが漏れたとは考えにくい。
「疾っ」
キッチンのカウンターとダイニングテーブルを超えて来る火を舌打ち一つで抑える。火は横に腕を伸ばし廊下から寝室へと伸びていく。目の前では魔法陣が形成されたという空間に残る成分を部下が収集している。
陽が長いこの時期に、暗くなるまで待っていたのでは遅すぎたか。いやしかし不鮮明すぎたあの写真ではこれ以上早く動くことは無理だった。
「この場所を退く。指示は乗車後に伝える」
磁石に惹かれる砂鉄のように部下達が無言で窓から出ていく。魔界性の光学迷彩装備を装着した彼らの姿は住宅街の他の家の住人からは見えないはずだ。
隊の最後尾となった左右雀は、窓から出る時に”ふっ”と短くも強い息を吐いて火の抑制を解いた。阻害されていた空気の流れが戻った反動で空間内の流れが生まれ、火は炎へと成長して家中に広がっていった。