信じる力、それは目に見えぬ力。生き残るための力、それは手に入る力。どちらも闘う力であることに変わりはない。
長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉
第1章 7、霧の向こう側②
「これ以上詳しく話している時間はありません」
答えた瞬間、秋山の顔が曇った。いや、何かを見てはっとしたような表情だ。
「どうしたんです? どうせあなた方は神の存在も信じていないのでしょう? なら無駄に止まるよりも先に行くべきだと言ったまでです」
「確かにいきなり神様とかいわれてもだけど」
口にはしたものの尻すぼみに小さくなった砥上の声で秋山は我に返った。他のみんなは瀬保の変化に気づかなかったようだ。いや、変化じゃない。彼はいま、同時にふたつの言葉を発した。
自分には「ひとことで十分だ」と聞こえた。だがここにいる他の人には違う言葉が聞こえたようだ。
「待ってくれ、話が大きすぎる」
砥上に続いて芦川も困ったような笑みを浮かべた。話は聞いたもののいきなり神や国家だと言われてもついて来れないのだ。これほどの体験をしていながらも真実を受け入れられない。
「いいえ、待てません」
だがここで彼らが納得するまで延々と説明を続けている時間はないのだ。
「彼らが島に上陸したようです」
精霊の気配が感じられない以上、湖澄が島の状態を把握することは困難だ。だが気配がないなら作ればいい。
「根拠は」
「信じてもらうしかありません」
上陸してすぐに、彼女は自分の足が着いた場所に水の玉を置いてきた。小さなビー玉ほどの大きさで物体にぶつかれば弾けて消えてしまうが、大型動物のいないこの島ではそれで十分だ。そのひとつが何かにぶつかり弾けた。上陸した追っ手が彼女の通ったルートと交差したのだ。30年前にこの島を襲ったのは奴らだ。逃がした獲物がこの島に逃げ込んだと知ったなら、どこを探せばいいのかすぐに気づく。
「ちくしょう、信じるしかないのかよ」
真摯に向けられた瀬保の視線に対して、彼を信じるしかないと秋山は答えを出した。
どこまでも、いつまでも疑念を持っているほど猶予がないと誰もが感じている。
すでにあの瞳はない。
暗く、この世界のモノではないような恐ろしい気配。
秋山はそれを知っていた。
「それであなたが、私たちを助けてくれるのよね」
これまで自分たちを守ってきてくれた秋山の出した答えが自分の願いと同じだと知り、ゆき子はすぐに行動に移した。
小さな子供を匿うかのように夫と息子の背に腕を回しながら瀬保をみる。その目にはなんとしてでも家族を守るという意志が宿っていた。
「相手は強大です。確かに私は助けるために来ましたが、そのためにまずは島から脱出するのが先です」
瀬保は芦川を見た。
「俺が手伝う前提の話だな」
芦川は瀬保と名乗る青年と、自分の横に並ぶどこからどう見ても普通の家族にしか見えない砥上一家をみた。
「彼らがここで手足を縛られたあなたを発見したとしても、同僚の公務員として救出するとは思えません」
「手足縛るのが前提なんだ」
砥上のツッコミに秋山が小さく吹いた。
「まあ、人に勝手に式神を着けておいて黙っていた連中だからな」
先ほどの式神の出現を思い出し不安になったのか、急にそわそわと芦川は自分の背後を気にし出した。
「大丈夫ですよ、もう何もついていません」
「地方職員の俺たちと違って、陰陽師の職員は3年で変わる。規律も厳しいらしく当直で食べるものも違うんだ。信頼なんていうものは出来なかったが、ずっとあんなのを内緒でつけていたなんてあんまりじゃないか?」
湖澄の言葉に安堵した表情を浮かべたものの、やはり無断で式神がつけられていたのがショックだったのだろう。
「悔しいが、俺も残されても後がないと思う。一緒に島から出よう」
全員の意見が一致したことに、遥希とゆき子の顔も明るくなった。
「ところで本当に、あんたたちはどうやってこの島に入ったんだ」
芦川が最初の疑問を遥希に投げかけた。
「俺が連れてきました」答えたのは秋山だ。「彼らの家が襲われたんです。急いで空間を移動できる魔道具で出たところがここです」詳細は省いたが間違ってはいないし、この状況で芦川もそこまでは期待していない。
「出たとこ勝負か、すごいね。その道具は」「もうありません。急いで出てきたんです。まさかこんな場所だったとは」冬の空から見た程度でこの場所を選んでしまった自分の浅はかさを秋山は悔やんだ。どうせ逃げるなら人気のないところにと思ったのだが、完全に裏目に出てしまった。
秋山の後悔なんて知らない芦川はふむ、と頷いた後に瀬保に視線を向けた。
「島の近くまでゾディアックで近づき上陸後、フェンスを超えてきました。西南側です」
湖澄もまた、嘘をついた。だが上陸に関しての発言に芦川は頷いて肯定した。
「あの辺りは比較的なだらかだからな」この山小屋までは距離があるが、フェンスさえ超えてしまえば無理な行程ではないと記憶と照合したのだろう。
かつての住人で長いこと仕事場としていただけあって、島内における地理的感覚には問題ないらしい。
「あんた、あとどのくらいの猶予があると思う?」
芦川は瀬保に問いかけた。
「ほとんどないと思ってますよ」
「じゃあ早くそこまで行こうよ」
「仲間が乗って帰りました」
島のすぐ外に瀬保の使ったボートがあると思った砥上の顔から希望の光が消えた。口をあんぐりと開け、「ダメじゃん」と肩を落とす。
「どの道追っ手が来ているのなら待機などできないよ」それに、瀬保が通ったであろうコースは追っ手も通ってくる可能性がある。とも芦川は付け加えた。
「でも、この島からは船じゃなきゃ出られないんでしょ?」
ゆき子の声にも落胆が見える。
「俺は魔界の人間のことは知らないが、例え追手が管理者用のボートを抑えていたとしても、さっきの手際を見る限りじゃ瀬保君と秋山君がいれば制圧は簡単だと思う。追手の規模はわからんが、何十人も船着場に張り付かせておくわけにはいかんだろ」
「秋山君が一人ずつ隣の島に運んだらいいんじゃないの。空飛べるんだし」
芦川が現れる前に話していた案を砥上は思い出した。
「悪いが俺の力もそうあてに出来ねぇぞ。力の配分を考えたら、せいぜいがひとりを運ぶくらいだ。それも片道な」
砥上には黙っているが、廃美術館でオリヴィエッタの封印が破れかけた時、秋山の意識の中に何者かが入り込んで彼女をまた封印してしまった。彼女の暴走は厄介だが、もしこの場に出てきたらどんなに心強いか。だがあれ以来、秋山の中で彼女の気配は感じられない。そして彼女が抑えつけている魔眼の気配もない。つまりただの4分の1だけの魔界人になってしまっているのだ。
力の回復も遅く、頼れるのは僅かばかりの吸血鬼の基本能力だけ。
これでは自分を守るだけでも精一杯だ。
「ごめん、冗談だよ」
思えば秋山は4分の3は人間なのだ。あの廃美術館の出来事でほとんど枯渇していた魔力が、たった数個の血液パックで補えるわけがない。まだ、半日しか経っていないのに。しかも自分だって変身できないのに、人に頼るなんて最低だ。
「いいさ、俺にも責任はある」
「私も先ほどのようにはいきません。この島は妙です。精霊たちの気配がない」
「精霊」という言葉に砥上はちょっとだけ顔を動かして、盗み見るように瀬保を見た。彼らの存在を気にする人間が他にもいたのだ。坊主のような短い頭髪に黒の上下の姿が陽炎のように揺れる。
もっとよく注視できたなら、あのノイズは消えるだろうか?
「そうと決まったら、武器の配分をしましょう」
秋山の声に弾かれたように砥上は瀬保から目を離した。
そうだ、いまは不思議な人物の観察をしている場合じゃない。
砥上は秋山に言われて父親の持っていた猟銃を芦川に返した。
手にしていた重たいものがなくなり、心なしか安堵する。対して芦川は戻ってきた銃を手にして安心したような顔をした。
しっかりとセーフティがかかっていることを確認して、肩にかける。
秋山は手にしていたグロックを器用にくるりと回し銃把を遥希の方に向けて、もう一度手にするよう促した。
すると瀬保が腰にぶら下げていたガンベルトを外し、前に差し出した。
「これも使ってください」
ホルスターに収まっているのは秋山のグロックよりもさらに大きな拳銃だ。
「それはお前が持っとけ」
言われて砥上はガンベルトを受け取り、ホルスターから銃を抜き取った。
「秋山君は」
手にした拳銃は猟銃よりも小さいのに、ずっと目方があるように感じる。それでいて静かだ。
芦川の猟銃をお喋りな馬だとすると、こいつは檻の中から機運を伺う熊のようだ。
秋山は砥上の手から拳銃を取り上げるとセーフッティロックを外して構えた。「コルトか。肩を抜かすなよ」
使用者となる砥上に見えるようにもう一度同じ動作を繰り返し、構える。予備弾のカートリッジはなし。ヒョロリとして細身の瀬保の体型から考えると最初から誰かに使ってもらおうと思って持ってきた可能性もある。
「俺は熊なら素手でもイケるぜ。俺ひとりだったらどうにでもなる」
手のひらに戻されると、砥上は見た通りにセーフティ・ロックを外し構えた。秋山の持ってきたグロックよりもずっと大きくて、重い。
「まずは生き残ることだぜ。生きてりゃなんとかなる」
「う、うん」
生きていれば。
だが、もとの生活に戻れるとはいってくれなかった。
「魔界はそんなに物騒なのかい」
手慣れた銃の扱いや熊に言及した時に浮かべた秋山の不敵な表情に芦川は驚いたようだ。
「これでも苦労してきたんですよ。血が薄すぎてほぼ人間ですから特に」と笑いかける。
こんな普通っぽい青年が玩具のように銃を扱うとは、魔界というところはよほど物騒なところらしい。
「瀬保さんはさっきみたいな術は他にも使える?」
ベルトのホルスターに銃をしまい、砥上は瀬保を見た。
「あれは特別です。もう一度使えるかどうか……。期待しないでください」
彼の指が背負ったマシンガンのベルトに触れた。手放そうとしないということは、使える自信があるのだろう。
「それじゃあ、出発するか」
それぞれの心構えができたと見込んだところで、芦川が景気付けのように大きな声を出した。
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