広がる血溜まりに喉を鳴らすのは忌まわしき魔名か、それとも自分自身か
長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉
第1章 3.異端の名④
大きく見開かれた暗く深い紫色の瞳が、色を失ったシェザーの眼の虚を見つめ返していた。
美しい。現魔界13王家の一つ、吸血族のデ・リューズ家にもいないとされる王の証。純血腫の魔界人でもない半端者に与えられるとは、まさに天の悪戯。
「その名を軽々しく口にするんじゃねぇ」
10年以上も前に封印した名前が久しぶりに秋山の怒りを沸点にまで引き上げた。普段は持っていることさえ忘れそうなわずかな吸血鬼の力を引き上げる。耳は尖り八重歯は獅子の如く鋭く延び、ヴァイオレットの瞳に赤い血の虹彩が浮かび上がる。
足元の魔法陣が彼の魔界人としての力の上昇に反応して軋み始めた。
「魔女ヘレナの最後の魔法陣だ。いかに魔眼の持ち主といえども4分の1魔人の力ではそれ以上動けまい」
最後の魔法。秋山は今一度、魔法陣を構成する線を視た。血だ。くそ、空間に漂うシェザーの体を維持する薬品の臭いで気づかなかった。これはシェザーの家に昔から仕えていた魔法使いが自らの血と魔力によって死の間際に編み上げた魔法陣。自分はもちろん、魔力の無いシェザーでさえも解くことはできない檻。
「さあ、お前の魔眼をよこせ」
体の重みで秋山を椅子の背もたれに押し付け、その顔に左手を伸ばす。右目の眼窩に爪を食い込ませると皮膚は簡単に引き裂かれ、三角形に形作られた爪先から頬に血が流れた。
「商人如きが、俺を舐めるな」
吸血鬼としての力を引き上げても、魔力が使えないことに変わりはない。だが吸血鬼の肉体は鋼で出来ているのだ。体重をかけてくるシェザーの力など足元にも及ばない。力ずくでその凶刃から逃れると、足に括り付けられた椅子の脚でなんとかバランスを取って倒れるのを持ち堪えた。不意に足場にしていた獲物に強く押され後ろに倒れそうになるも、シェザーは体を縛り付けているタンクやらそれを運ぶ台車やらのせいでどうにか持ち堪える。
このまま逃げたいところだが魔力が使えない状態とあっては圧倒的に不利だ。
なら、力ずくで有利になるしかない。
動けないでいるシェザーの左腕に思い切り噛みついた。2ヶ月間体を燻し続ける熱に苦しみ肉も削げ落ちたシェザーの橈骨が顎の下で砕け、裂けた動脈から溢れ出る血を貪り喰う。人間の血と違い、魔界人の血はまずい。特に彼のようにろくに魔力もない魔界人の血は味も質も落ちる。だが、ここ暫く本格的な吸血行為を行なっていなかった体には十分だし、何よりも微量とはいえ魔界性物質を含んでいる。良質な魔力そのものでなくても魔力の源には間違いない。
例え少量だとしても、性欲よりも貪欲な吸血欲求が呼び覚まされる。
「やめろ、ケダモノめ」
シェザーは不自由ながらもバットのように膨れ上がった右手を秋山の頭に叩きつけた。椅子に縛られたままの秋山の体がバランスを崩し床に倒れる。
転がった杖を拾い、シェザーはその先端を秋山の顳顬に置いた。
激しい痛みと怒りで、シェザーの息は上がっていた。生まれてこの方、100年余りの中で何かに腕を噛まれたのはこれが初めてだ。それも元王家の面汚しの家系のそのまたさらに半端者に噛まれるとは。
「お前の牙はもはや王のそれではなく、単なる蝙蝠の歯に過ぎないのがわからぬか」
床に顔の半分を擦り付けてヴァイオレットの瞳が睨んでいた。例え高い魔力を持つ魔眼といえども、宿す体の半分以上が人間では単なる飾りと同じだ。ヘレナが命と引き換えに描いた魔法陣に囚われながらも動けたことに驚きはしたが、一瞬の瞬発力で尽きたか。
気を取り直しもう一度、シェザーは秋山の瞳を手に入れようとゆっくりと体を屈める。
あらゆる魔獣を制し、無限の魔力を得ると言われる魔眼。手に入れた者は魔界13王家の頂点に君臨し、名実ともに魔界を統べるというその瞳がいま、手の届くところにある。
体の不自由さを補う駆動機構のモーター音が静まり返った空間に響く。
「オリヴィエッタが誰の名か知っているか」
歯の間から秋山は言葉を吐き出した。モーター音に囁きと呼吸音が重なる。声が震えているのは怒りや恐怖からではない。力が、吸血行為と詠唱された魔名に魔眼が反応しているのだ。
体の中から今にも溢れ出しそうになる不気味な力を、秋山は息を整えて押さえ込む。
「吸血鬼でありながら魔法が使える、稀有な女の名前だ。お前の分不相応なその眼の力を抑えるためのな」
秋山の耳のすぐ上に、シェザーの口があった。
常に富を持つ者、上位に立つ存在だと思い込んでいる者の性か、楽しむように無駄な時間をかけて秋山の問いに答える。
モーター音が止まり、捻れたチューブの中を流れる液体が小さく音を立てる。
「無知は幸せだな、シェザール・L・アルヴィッツヲ・“エルザス”」
シェザーの体が硬直した。
「アルヴィッツヲ家に魔名はない」
今度はシェザーが目だけ動かす番だった。体の硬直は不明だったが、恐れはなかった。相手は動けないのだ。
そう思うシェザーの足元で、秋山がぶるん! と大きく首を振った瞬間、彼の体は束縛から外れていた。縛り付けていたはずの金属製の椅子は瞬時に破壊され、その背には黒々とした一対の蝙蝠の羽根が影のように寄り添っている。
モーター音を響かせ、シェザーは屈めていた体を元に戻した。
そんなはずはない。奴の魔力は完璧に封じられている。魔力がなければ4分の1の魔界人など、ただの人間と同じだ。
「てめぇ、吸血鬼舐めてんのか」
吸血鬼の持つ身体能力は魔界人の中でもずば抜けている。それは体力のようなもので魔力ではないから魔力を封じる魔法陣では封じることができない。だが反面、人間の肉体に近い秋山が魔力無しに使うには体力的にも精神的にも相当の負荷がかかる。
皮肉にも、シェザーの血の中にあったなけなしの魔界性物質のおかげでこの姿を維持できているのだ。
「忘れたのか、お前は所詮4分の1の半端者だ」
多少の恐れが含まれていたが、シェザーの声にはまだ余裕があった。いずれ己の血から取り込まれた魔界性物質が尽きて、秋山がただの人間に戻ると読んでいるのだ。
「前へ出ろ、”エルザス”」
シェザーの姿に重なるように、空間が揺らめいた。
「あいつを殺せ」
灰色の影の下から現れたのは美しい銀色に磨き上げられた細身の鎧だ。顔を隠す真庇、面頬、喉当と一分の隙もなく合わさり中を見ることができない。だがその装飾と細いシルエットから、纏っているのは女性だと容易に想像ができる。
まずい。魔名が女性だとしても、鎧を着た女性だ。16世紀のドレス姿の女性よりも強いのは確かだ。
わざわざ兵士の魔名を選ぶとは、守護霊と間違えているのか。
今にも突進してくるかと秋山は身構えたが、鎧と同じく繊細な装飾が施された武器・ハルバードの位置が右脇から動くことはなかった。
「残念だったな。魔名ってのはな、主人を選ぶんだぜ」
今度は秋山が鼻で笑う番だった。
「くそ、役立たずの安物が」
唸るとシェザーはポケットから2本のアンプルを取り出した。不自由な右手で両方とも一気に己の首筋にぶっ刺す。
魔力増強剤か。いや元より魔力が無いに等しい奴の場合は魔力そのものに違いない。それともう一本は何だろうか。
短いスペルを唱えるとシェザーの周囲に檻のようにホログラムが展開される。そして銀色の鎧の表面に複雑な模様を浮かび上がらせると、エルザスは震えながら一歩を踏み出した。
「自動骸套!」
農夫でも新兵でもすぐに使い物になる自動骸套、つまり魔動による自動鎧だ。本来なら使用者が中に入る魔導力を使ったバトル・スーツだが、”エルザス”は外部からシェザーの意思で動かせるフル・リモート仕様になっているのた。先ほどのアンプルの一つが、シェザーに”エルザス”を操る力を与えているに違いない。
「これでやっと互角に戦えるな、小僧」
”エルザス”の動きは早かった。スムーズに進み出てハルバードの剣を突き出してくる。だがどれほど性能のいい操り人形でも、使う相手がズブの素人ではどうしようもない。その動きは杜撰で考えなしで、突進しては銀の斧を振りまくるだけの子供のチャンバラのようだった。体を捻り攻撃を避ける秋山は鎧の影に隠れるシェザーを盗み見た。マスクの下から白い泡と共に血が垂れている。もともと魔力を持っていない上に重度の火傷を負った体には、借り受けた魔力も魔名の制御も荷が重いに違いない。
放っておいてもいずれ奴は死ぬ。そう確信した秋山は、背中の翼に力を込めて空中に舞い上がった。いずれ死ぬ奴の相手をして体力を消耗するよりも、それを逃走力に使った方がずっといい。
だが、彼の体は予期せぬ衝撃によって床に叩きつけられた。
くそ、攻性魔法陣か。
中に閉じ込めたモノが魔法を使ったり逃げたりしようとすると、即座に攻撃を加えるのだ。
「さあ、観念しろ」
極度の疲労で落ち窪んだシェザーの瞳が、不気味な笑みを湛える。
打ち下ろされるハルバードの戦斧を掻い潜り、シェザーに接近して体当たりをする。立つことがやっとだった魔界人の体は無様に転がり柔らかい喉が露わになった。
「言え」
その喉に喰らい付きたくなる衝動を抑え胴体に乗ると、秋山は問う。
「お前の背後にいるのは誰だ」
だがシェザーは答えず、目だけが不気味に笑う。
左の背後からスイングされるハルバードが当たる寸前で秋山は身を翻しそれを躱した。”エルザス”のハルバードとシェザーの目に見えない障壁がぶつかり激しく火花を散らす。流石に互いを傷つけることはないか。
立ちあがろうとしたその手に何かが当たる。掴むと、シェザーが持っていた杖だ。だが木製にしてはやけに重い。グリップを触ると仕込み杖であることがわかった。
地獄で仏とはこのことか。
振り向きざまに杖で”エルザス”の手を受け、横に流す。形はでかいが、操るのは喧嘩もしたことのない金持ち。素人だとわかればその動きを読むのは容易い。懐に入るや否や肩を使って強く押した。銀の鎧の騎士が派手な音を立ててバラバラに転がる。その動きから思ったとおり、鎧の中には誰も入っていない。そして、すぐさま体制を立て直すと秋山は杖のグリップを引き抜き、銀色の剣先を躊躇う事なくシェザーの喉笛に通し、横に振り切った。
更なる魔力の注入をしようとしたのか、アンプルを手にしたシェザーの首は、大きく目を見開いたままゴロリと床に落ちて転がった。少し遅れて、左手の肘で起こしていた体が崩れる。右手から落ちたアンプルがコロコロと暗闇に飲まれて行った。
秋山の手からも剣が外れ、がくりと膝が床を打つ。
終わったのだ。
両肩で息をして、血液の吹き出す胴体と、流れる血溜まりに浸る首を見る。 シェザーの魔名は金で買ったか誰かから巻き上げたか、おおかたそんなところの代物だろう。
故に、主人を守らなかったのだ。
辺りに薬品と窒素にまみれた血液の匂いが広がる。
知らぬうちに喉がなる。
「……やめろ」
呟き、死体に貪りつきたい衝動を抑える。
オリヴィエッタ。
血に塗れた女公爵の名前。