明け方に響く物悲しい鳴き声。凄惨な夢で見た男は誰か
長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉
第1章 鵺の夜①
ゆらゆらと視界が揺れていた。
蒸せるような熱気を放つ火の海。
場所も時間もわからない。
視界一面に広がるオレンジと赤味がった炎の森の中で人々は逃げ惑い、倒れ燃えていく。肺を焼き尽くすほどの苛烈な熱波の中にいても彼はそこに立ち、次から次へと逃げてくる人々が倒れるのを見ていた。
見ていることしかできなかった。
いや、見せられているのだ。
この人々がどこから来たのか、どこへ逃げようとしているのかは知らない。
彼はこの世界に干渉できず、足元に転がり身体をすり抜け目の前で煤となって霧散する彼らを見ることしか出来ない。
見ろ。
誰かが言った。
これがお前の世界だ。
足元で彼に向かい手を伸ばす老人がいた。
「主人さま」体の半分に火がつき転がりながらも生きようと喘ぎ、生きている自分に縋ろうとする者がいた。彼らを襲っているのは、普通の火ではない。火が触れた場所からの炭化速度が異常に早い。
身体が動かず、目を背ける事も出来ず、だから瞼を閉じた。それでも目の裏に映る青い光。燃え尽きた人々の魂。彼が出来ることはそれらの魂を己の世界に迎え入れ、自身の一部として共に生きること。
だから、許してくれ。
目を見開き、炎の原を見渡した。
両手を広げ胸を開き、彼らを己の内環世界へと導く。彼らの魂が胸の内に入るたび暖かい痛みが波紋のように軀に広がる。
やめろ。
炎の原の四方から声が響き、背中に鋭い衝撃を受けた。よろけて手をつき、あたりを見回す。青い光は驚いた蛍のように一斉に散り散りとなり、炎に煽られて消えていく。
「待て、待ってくれ」
彼は青い光に手を伸ばした。この炎に焼かれては転生することも回生することも出来ない。
本当に消えてしまうのだ。
「哀れな同胞どもよ。たかが獣に惑わされその身の髄まで喰われようとは。せめて泡沫の夢に酔うたまま消えるがいい」
手を付き身を起こした視線の先に近づく足が見えた。横に引きずる太刀を濡らすのは真っ赤な血だ。
「誰……」
声を出すと同時に大量の血液が口から迸った。胸からも鼓動のリズムと同じ速さで滝のように血が湧き出てくる。
「もはや儂の顔も見忘れたとは。所詮は畜生だな、鴝楼」
見た事もない男が笑っていた。
ゆっくりと手にした太刀を持ち上げる。
やめてくれ。
冷たく重たい鉄の塊が振り下ろされた瞬間、彼は目覚めた。
薄暗い部屋の中で、見慣れた天井が占める視界をなんだかよくわからない生き物の影がゆっくりと横切っていく。
いつもと同じ、唐突な目覚め。そしてこれまでで一番最悪な目覚め。
わずかな空白の後に、じわりと現実の音が染み出してきた。とはいえ明け方のこの時間はまだ人々が起きる前。聞こえるのは動物やそれ以外が生み出す微かな音だけだ。しかしそんな細やかな音でさえ心が安らぐ。
狂気じみた炎の燃える音や助けを求める声。それが夢であったと、教えてくれるのだ。
ベッドの上に起き上がり、深いため息をつく。
夢だとわかっていても確かめずにはいられない。
あの男が背中から刺した、そしてあの太刀が貫通したはずの胸を見てみる。
当然ながら何もない。傷も痛みも、青白い魂が入り込んだ後も。
クロウって、誰だろ。
フットライトの微かな光に照らされた自室の中を様々な不透明な影が行き交う。
この夢を見た後は決まって、五感どころか持ちうる全ての感覚が鋭敏に研ぎ澄まされ、一時的ではあるが見えない存在まで見えるようになる。生まれてこの方幽霊は愚か怪現象にさえ見舞われたことのない身としては最初こそ驚いたが、何もしないと分かり慣れてしまえばこんなものだ。夢で逆立った神経が落ち着けば、彼らは自然に見えなくなってしまう存在である。
とはいえ夢をみるようになって約2ヶ月。こんな短時間で慣れてしまうほど頻繁に見ているということか。
気がついて一人、苦笑する。
たった2ヶ月で何度この夢を見ただろうか。
起床にはまだ早いが、二度寝するほどの時間はないので起きようと床に降ろした足に、ふわりとした感触が当たった。
羽根だ。
真っ白い柔らかな羽毛が部屋のあちらこちらに転がっている。
こいつらにも流石に慣れたな。また苦笑いを浮かべ足元のそれを手に取る。
ふとすぐ横に立てかけた姿見に目が行った。
鏡の中から見返す自分に目が釘付けになる。
頬や額に光を帯びて浮かび上がる紋様。こんな現象は初めてだ。
そしてフラッシュ・バックする夢のシーン。
顔のすぐ横に降ろされた太刀にもこの紋様が写り込んでいた。
だがあれは、俺じゃなかった。
夢は確かに自分の夢であり、夢の中でひどい思いをしたのも自分だ。なのに、太刀に写るのは知らない男の顔であり、そこには同じような紋様が浮かび上がっていた。
クロウ、とかいう人物なのだろうか。
そんなことを考えながら見ているうちに紋様は光を失い、消えてしまった。
助かった。あのままでは会社にも行けない。
紋様のあった場所がなんともないことを確認する頃には、いつものように部屋の中を浮遊していた奇妙な影や羽毛は跡形もなく消えていた。夢を見たことによる神経の昂りがおさまってきたのだ。もともとあの奇妙な影達は通常の人間には見えない。実体化出来るほどの高い位相能力=存在力がない、この世界では下位の存在なのだ。物理学は苦手だが、簡単に言うとこの場合の『位相』とは物理のそれではなく、ある世界から別の世界に出現するにあたり肉体が変換するための力のことらしい。とにかく元々低い次元に住んでいる生物がこの世界で硬さを持つほど実体化するにはもう少し力が必要であり、彼がそれを見ることができるのは一時的にせよこの世界である程度高次元の能力を得ているから。と言うことらしい。
最近そっち方面に詳しい友人からの受け売りだが、要するに夢と同じだ。
起きれば何事もなかったかのように消えてしまう夢と同じで、いずれは空気のように透明になってしまう泡沫の存在。
赤い炎の上を飛び交う、あの魂のような。
カーテンの向こうから聞こえてきた物悲しい音を引く何かの鳴き声に、背中の毛がざわざわと反応する。
何だ、この感じ。
無意識に体が緊張し、四肢の筋肉に力が入った。まるで来るべき何かに備えているかのようだ。
だがしかし鳴き声はその一度だけで、しばらくしても何も起きないだろうと確信すると力は自然に体から抜けた。
得体の知れない何かに緊張したことで、べた着く寝汗の上に更に汗をかいてしまった。幸いまだシャワーを浴びる時間くらいはある。
着替えと汗で濡れたシーツを手にすると、両親がまだ寝ているであろう階下に降りていった。
空気の中に潜む雨音。
耳鳴りのようにこびり着いて離れない。
毎日増えていく洗濯物にシーツなんて大物を追加したら、梅雨時の雨と曇り空にうんざりしている母親の小言が増えるのは覚悟しなくてはならない。
あの夢を見た後はいつも酷い汗をかき、焼けるような熱さと喉の痛みで起きる。それでも、見始めた最初の頃のように目覚めた時に部屋が荒れている事や、今日よりも多くの羽毛が飛び散っていることは最近ではなくなっていたのに。
今日はこれまでで一番酷く汗をかいた。
コックを捻り、頭からシャワーをかぶる。まとわりついた汗が、湯に溶けていくのが気持ちいい。
これまで見てきたあの夢の結末は、炎が全ての人々を-それこそ骨の一片も残ることなく-焼き尽くしたところで終わっていた。今日のように青白い魂が体に入る事もなく、ただ悲鳴や叫び、鳴き声を聞かされた後に下火になった火だけが残る地面を見つめ、呆然とするのだ。ひどく熱く悲しく心が空っぽになる。
だが、今日は違った。
どうして今日は違ったのだろうか。考えたところで思い当たらない。それに太刀を持っていた人物は怒っていた。
人を殺したいほどの怒りなど、これまで抱いたことはもちろん、他人から向けられた事もない。
いや、本当にあの怒りは自分に向けられたものじゃない。
太刀に写った人物。クロウと呼ばれた彼に向けられたものだ。
朝からなんて迷惑な夢なんだ。
一際大きくため息をつき砥上逍遥は重く下がった前髪を両手で後ろにかきあげた。