あの夜、旧びたゲームセンターには人間以外が集まっていた。
長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉
第1章 3.異端の名③
本物の魔界生物が表に出ることのないこの国に多い思い込みの一つに、魔界人の外見がある。何故か魔界人は全て人間と異なる外見をしていると思われているらしいが、それは大きな誤解だ。魔界に住んでいる人間だからといってみんながみんな人間と違う見た目というわけではなく、むしろ住民の8割がなんの能力も持たないただの人間であり、遺伝子的にも人間界の人間と変わらず、見分けがつかないほど特徴がない。細かいことをいえば、魔界との境界が比較的緩いヨーロッパ系の人種ほど見分けがつきにくくなる。魔界人の人間との混在率は、当然ながら魔界人が住民権を得ている欧米ほど顕著であり、それほど珍しい存在ではなくなっている。そして人間とも商売を行う大商人の息子でもあるシェザーもまた、どこからどう見てもただの人間だった。
少なくともあの夜、砥上を連れた秋山が会った時までは。
ところがいま目の前にいる彼は、かつての姿とは程遠いものとなっていた。いや、少なくとも一部は同じだった。魔法使いの婆さんが砥上を視たことによって出現した炎により、焼かれた場所以外は。
「教えろ」
シェザーの顔の大半は、ラテックスの皮膚によって覆われていた。しかしそれも半ば溶けかけている。おそらくそこには本物の皮膚と同じように、幾度となくラテックスの皮膚があてがわれてきたのだろう。だがその度に溶けてしまうのだ。炎によって焼かれた皮膚はいまだにブツブツと白い煙を出しながら気泡が泡立ち、ラテックスとの境界が溶けて曖昧になっている。
「神炎使いはどこだ」
顔を背けるとシェザーは、より醜い顔を見せつけようとするかのように、秋山の視界に入るよう顔を近づけた。
「悪いが、俺はあいつが何処にいるか知らない」
神炎使いとは、おそらく砥上のことだ。
あの夜、自分の夢と突如現れた鳥への変身能力に悩む砥上を連れて行ったのは富士市の外れにある旧びたゲームセンターだった。昼間の客の入りはほぼ皆無で、外壁も看板も色褪せて忘れ去られたようなセンスの名前のゲームセンター。夜もやっぱり真っ暗で、日の入りとともに閉店しているような店だったがそれは見せ掛けで、周囲には巧妙に人間の目を欺く魔法が敷かれていた。
一歩敷地内に入れば洲内外のナンバーの車が駐車場に並び、店内も様々な人種で埋め尽くされていた。
角持ちに獣耳尻尾持ちは当たり前。水棲人種にケンタウロス。
そう、本当に様々な形態の魔界人たちが店内を埋め尽くし、ところどこで語り合っていた。もちろん秋山のように人間の顔をした連中も。大半の人々が普段隠したり被ったりしてる「普通の人間」の姿を捨て、本来の姿を晒していた。
本性を曝け出せるこういった場所は、人間界にいる魔界人にとっては必要不可欠な場所だ。それは魔界人を容認している欧州だって変わらない。容認されているのと受け入れられているのとは違う。人間界の生物ではない上に容姿も異形となると、いい顔をする人間は少ない。
元来人間を含めた生物がそういった物なのだ。その根幹は本能からくるリスク回避そのもの。危険なものや存在を素早く察知する、生物が持つ生きるための能力なのだ。
種々雑多な形態の生物が入り乱れる魔界においてもそうなのだ。地上の全ての地域に分布する人間が、自分達と違う容姿の知的生物を無条件で受け入れ難いのもどうりだ。
そんな中で、秋山は常に本来の姿とは違う外見を纏っていた。ここでの秋山は眼鏡もかけていないし瞳はグリーンで長い髪を後ろで束ねていた。服装も薄いシャツに革のパンツにブーツというバイク乗りのような格好だ。集会には車も乗ってきたことがない。普段より四角くて鼻梁の広い顔に砥上の笑いのツボが押されたらしく、会場に入るまでずっと笑いを噛み殺していた。一方その砥上といえば、黒目がちな大きな目に細くて高い鷲鼻、オールバックの赤い髪をしていた。体全体も細く、身長も秋山よりも頭ひとつ大きいくらいにしてやった。ふたりとも、店の外で出会っても絶対にわからない容姿だ。
集会は招待制で、固定されたメンバーからの招待なら魔界人である限り最初の一回だけ無条件の参加が許される。いわゆる「面通し」の一回は主催者のシェザーに会い、彼の魔女と話をするのが決まりだ。シェザーお抱えの魔女は歳をくっているが素性がいい魔女らしく、秋山の変装に対してケチを入れることはなかった。ただ、自分が魔界人だと最近になって知ったばかりだと紹介した砥上に対しては、少し言いたいことがありそうな雰囲気を最初から醸し出していた。それでも何か釈然としないものがあったのだろう。まずは見てみるかということで、セッションが始まったのだ。
秋山は部屋から閉め出され、残されたのはシェザーと彼の魔女ヘレナと砥上の3人。後から聞いた話では、始まってすぐに砥上は、深い眠りに入らされたという。鳥への変態のきっかけとなった夢の話を聞き、彼の過去世へと夢から入ろうと試みたのだろうか。
ポーカーテーブルに陣取り、砥上が出てくるまで時間を潰そうとした秋山が異変を感じたのは、20分ほどたった頃か。テーブルの向こう側に立つボディーガードが背にした扉の間から、奇妙な気配が立ち上った。周囲の魔界人は気づかない。皆それぞれ酒や薬を楽しみ、音楽に身を任せて踊り、ボディーガードは魔力のない筋肉バカとくれば異変に気づかないのも通りだ。いやもとより、この気配を知っているのはただ一人。秋山だけだ。
最初に空であった時に砥上が纏っていた奇妙な存在感。この地上では異端すぎる輝きのある気配。砥上が、彼が我を忘れ別の何かが顔を出している時の、あの気配だ。
周囲が止めるのも無視し、テーブルから立ち上がった秋山がドアの前に立った時、ボディーガードの背中を瞬時にレアステーキ並みに焦がした炎が吹き出した。素早く察知した秋山が避けることができたのは、吸血鬼の持つ場のエネルギーを読む力のお陰か。
扉のみならず、壁ごと焼いて姿を表した砥上は白く輝く炎を引き連れて飛び出して来た。背中の翼が揺れるたびに煽られた炎は飛び火し、より強い魔力を持つ魔界人たちを真っ赤な火だるまにしていった。秋山はなるべく炎を視認しないよう両目を庇いながら、彼の近くに止まった。
あの炎は意志を持っている。
「止めてくれ、左右」
彼は叫んでいた。秋山の施した変装ははずれ、しかしながら人間とはかけ離れた嘴を持った姿で泣きながら、懇願するように彷徨い歩いた。二の腕や頬から雛のような柔らかい羽が生えている。おぼつかない足取りの彼にはおそらく現実が見えていない。シェザーの魔女に見せられた夢の中にいるに違いない。
「左右、お願いだから皆を助けてくれ」
炎が砥上の夢から現実化しているのなら、彼を起こせばいいだけの話だ。クソッタレめ!
床に手をつき秋山は辿々しく歩く砥上の足を思い切り払った。思った通り無様に転んだ彼の上に馬乗りになり顔を数回平手打ちしてやる。その間にも白い炎は広がり、店内はますます悲鳴でいっぱいになり、やがてあちこちからオレンジ色の炎が立ち上がり始めた。
「起きろてめぇ」床に激しくぶつけそうなくらい頭を振ると、ようやく薄らと目を開いた。肉体的欲求の睡眠ではない、術による催眠は強力だ。
「はぁ、あきやまく」寝ぼけ眼の嘴をむんずと掴みそれ以上いわせない。この能天気鳥男はどんな時も緊張感を持てないのか。呑気に涎なんか垂らしやがって。
「逃げるぞ、じっとしてろ」4分の1だけの吸血鬼である秋山には、吸血鬼本来が備え持っている瞬間移動や分身、強い念動力といった超能力はない。だが魔界人の少ない血は人間よりも俊敏に動く力と、ガードレールを引きちぎる位の怪力を与えてくれた。その力で砥上を小脇を抱え店内を風のように駆け抜ける。暗闇でも見える目と鋭敏な空気の流れを読むセンサーでパニックに陥る人々の足元を身をかがめ駆け抜け、炎を避けて店の外へと走り出す。だが、そういったパニックに強い特性を持っているのは秋山だけではなかった。魔力もなく文字通り鋼の肉体だけが美徳のボディーガードが追って来た。魔力がないから炎に焼かれることもなければ、肉体に施された非常識な魔法の治癒力で火傷もすぐに復活するのだ。もちろんシェザーの魔女の治癒魔法に違いない。ともかく、そいつらはチープな作りの店の壁をぶち壊し駐車場で足を止めた秋山を見つけた。「やべっ」数枚のコインを動かすのがやっとの念動力を使い適当な車の鍵を開けると乗り込み、車の回路を揺さぶって起動させると駐車場から飛び出した。
二人の逃避行はその先もあるのだが、今はこれ以上感傷に耽ることが出来るような状況じゃない。
シェザーのいう神炎こそが、砥上の周囲にまとわりつくあの白い奇妙な炎なのだ。
シェザーには、砥上が呼び出した炎を使い魔界人達を焼き殺そうとしたように見えただろう。
「悪いが、俺はあいつが何処にいるか知らない」
だが、当然だがここはしらばっくれさせてもらおう。
「本当だ。話しただろ、あいつとはたまたま空で会って、それ以外では会った事がないんだ」
背の高いシェザーが、椅子に座ったままの秋山の声をよく聞こうとして身を屈めた。これほど近づけば、いやでもその姿が目に入る。
身体の右側の半分以上が重度の火傷により膨れ上がり、傷口の保護に当てられた金属プレートには霜の浮かんだ細い管が溶着されている。中を流れるのは熱を冷ますための液体窒素だろうか。背後には巨大な冷却タンクがある。かろうじて無事だった左手左足以外はその冷却タンクの運搬具に固定されている状態だ。太く腫れ上がった右手さえ、何本ものチューブを垂らしている。
引きずるような音は、この運搬具のモーター音だったのだ。
「そうなのか」
本気にしている様子はないが、嘘だと疑って怒っている気配もない。
「どっちでもいいさ。いずれアイリスが連れてくるさ」
シェザーの口にした名前に、ウェーブのかかった黒髪の女の姿を思い出す。くしゃっとなる笑顔で、細身の魔女。集会ではいつも会場の隅の方にいて、顔見知りの魔界人達をタロットで占っている。だが秋山はそれほど彼女と親しくはない。言葉も挨拶程度しか交わしたことがないのにこれほど詳しく思い出せるなんて。
くそ、そういうことか!
記憶の中のアイリスが、テーブルに座る客の肩越しに秋山と砥上を見ている。
シェザーのお抱えの魔法使いはヘレナだけじゃない。彼女も、アイリスもお抱えのひとりだったのだ。
記憶の中の彼女ははっきりと秋山を見ていた。
変装の下の秋山の素顔を。おそらく砥上も見ていただろう。
俺がこんな屈辱的な姿で囚われているのは、保険だ。
もしアイリスが迎えにいった砥上が逃げようとしたら、秋山の無事をちらつかせていうことを聞かせるつもりなのだ。
砥上にはあの集会以降、もし魔界人に会っても知らぬ存ぜぬで通せと言い聞かせてある。
だが自分がこうして囚われてしまったならば、彼は来ないわけにはいかない。
そういう奴なんだ、あの鳥頭は。
「最も俺が興味があるのはお前だがな」
熱と膿で赤黒く腫れ上がった右手をぎこちなく動かし、秋山のメガネを掴む。
魔力を封じ込められ、澱の沈澱した深い茶色がかった瞳を、不自然に大きく開かれた瞳孔が覗き込む。そんな死人のような瞳で、いったい何が見えるのか。
「オリヴィエッタ・ラス・イェルス」
何故、彼がその名を知っているのか。
言葉を失い、秋山はシェザーの眼に負けぬほど大きく目を見開いた。
こいつが用があるのが本当に俺ならば、砥上に用があるのは誰なんだ?
「お前の背後にいるのは誰だ」
「察しがいいな。もちろん俺もあの男には怒っているさ。だが金になるからな。それでチャラだ。それに、最高位の魔名も手に入る」
メガネが床に捨てられ玩具みたいな音を立てた。
「いや、両方だな」左手の杖に体重を乗せ右手で喉元を捕まえると、上から覆い被さるように睫毛同士が触れ合うほど眼を近づける。
「せっかくだ、この腐りゆく眼の代わりにその魔眼ももらっておこうか」