何気ない記憶の正体、表れた不安。生きるための逃走を再開。
長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉
第6章 暗き森①
初めて聞かされた父親の出自に、自分に祖父母という誰もが持っているルーツがない理由に砥上は少なからずショックを受けた。これまではいないものはしょうがないと特に気にもしてこなかったが、子供心にどこか聞いてはいけない何かを感じていたのだろうか。
「もしかして今夜襲われたのって、俺のせい?」
父親の遥希のいう通り、逃げていたのを急にやめて長期間同じ場所で暮らしていたにも関わらず追い続けてきた存在が訪ねてこなかったのは、相手側が諦めたか目標を見失っていたに違いない。それなのにシェザーに関係したタイミングで姿を現すとは、これはもう自分のせいとしかいいようがないではないのか?
「そうとも言い切れないんじゃないのか。追われてたのは遥希さんだし、話の様子から見るといつ居場所が知れてもしょうがねぇ状態だぜ」
答える秋山の目がメガネの中で泳いでいるのが見えた。
「何下手な気休め言ってんの」
今更とばかりに砥上が秋山の肩に自分の肩をぶつけると、目の前に座るゆき子がくすりと笑い声を漏らす。
「ごめんなさい。逍はひとりっ子だから、兄弟がいたらきっとこんな感じだと思ったの」ガラにもなく気恥ずかしい顔をする秋山にゆき子が謝る。
砥上の母親の声は、愛おしさに満ちていた。親類縁者がいない生活では、この3人が唯一の身内なのだ。特に両親は辛い別れを経験しているのだから、お互いの存在を普通の家族以上に大事に思ってきたに違いない。
「いえ。確かに兄弟はいいものですよ」
アパートで自分の義姉について語っていたときはどうでもいい存在であるように振る舞っていたのに、いまは懐かしそうに笑って返す。
「ったく、しょうがねぇな」とため息をついて、秋山がデニム・パンツの後ポケットに手を延ばすと、ゴトリと重たい音がして何かが床に落ちた。
「秋山君、これ」
何気に砥上が手にしたものを見て、母親が小さな悲鳴をあげる。父親の顔にも緊張が走った。
「ああ、これですか」
秋山が砥上の手から取り上げたのは、グロックだった。「もしもの時のために持ってきたんです。オートマチックです。あとで使い方を教えますんで」
先ほど薪を割いていたナイフのように簡単に渡してくるそれを、遥希はメダルか何かを見るような眼差しで受け取った。手にはしたものの使わずに飾っておくもの。そんな感じだ。
故郷と違い、緩やかな平和が重視されるこの国ではあらゆる力も否定される。身を守る術ではなく、悪とみなされるのだ。その考え方は武器に対しても同じで、一般人が拳銃を所持することは許されない。プラモデルのような明らかな玩具ならまだしも、モデルガンひとつ買うにも身分証明証の提示がいる。そんな国の市民だから、本物の拳銃といわれても実感が湧かない風な顔をしている。
セーフティロックがしっかりと掛かっていることを確認し遥希の手に拳銃を預けた秋山は、何事もなかったかのように話を元に戻した。ポケットから出した粒子の荒い写真の印刷された紙をゆき子に渡す。部屋を訪ねてきた錐歌が落としていったものだ。あの時彼女は、魔名の影響が残る自分に警戒していたし、少し急いでいるようでもあった。おそらく落とした事さえ気づいていなかっただろう。
「これ、逍だわ」
一体何のことだと身を乗り出して母親の手元を見た砥上はショックを受けた。そこには顔に羽毛を生やし虚ろな目をした男が写っている。家で変身する過程の顔を姿見で見たことはあるが、これほど羽毛に塗れてないし死んだような目でもない。
「人の記憶から作り出した画像です。画像処理をして羽を取り除けば十分顔認証にかけられるレベルまで修復可能です」
これで左右雀が砥上家を突き止めた方法が解明された。風を操る一族として逃げ続けてきたのなら、神炎使いとシェザーが呼んだ砥上を左右雀が追ってくるのは当たり前だ。火は風により静から動へ移るのだから。
「やっぱり俺が……」
砥上には幼少期の写真が少ない。ただ単に父親にそういった趣味がないからだと気にもとめていなかったが、話を聞いたあとなら用心のためだと納得できる。幼稚園にも通っていなったので、あるのは学校の文集の写真くらいだ。そのせいか大人になっても友人たちとの写真撮影は苦手だ。データをもらってもクラウド上から出すこともほとんどない。スマホのカメラロールのほとんどは車の写真で、それさえもたいした量ではない。
「いやお前が悪いわけじゃない。父さんがちゃんと話さなかったから」
これまでの生活から、写真のように姿を残すような事象からは極力逃げてきた遥希だが、自分の出自の事情を知らされていない息子には何もいってこなかった。彼は派手な遊びこそしないが普通の青年だ。本人が自分自身を世間に晒さなくても、思わぬところで姿が拡散することだってある。
「いまはそれはもう関係ない」
親子の反省タイムは秋山によってぴしゃりと打ち止めにされた。誰がどうではない。監視カメラが至る所にあるこの世界では、むしろこれまで発見されなかった方が奇跡なのだ。
「そうね。原因がどうであれ、秋山さんが来なかったら私たちは今頃その人に捕まってたわ」
もしくは反撃する暇もなく殺されていたか。
「あなたはどうして、そんなに逍の世話を焼いてくれるの」
ゆき子だけでなく遥希にまで真摯な目を向けられて、秋山は一瞬戸惑った。
「お二人こそ、俺が怖くないんですか」
公式ではこの国に魔界人はいない。4分の1とはいえ、魔界の血が入っている相手を目の前にしてこれほど冷静でいられるだろうか。
「確かに驚きはしたが、私も随分数奇な運命を辿ってきたと思っているよ。こんな人生を送っていれば、少しのことには驚かなくなるものだ。それに、君はいい人間のようだからね」
驚くのはこちらの方だと言わんばかりに、秋山は怪訝な顔をした。人間? 魔法陣を操りヴァイオレットの瞳を持つ俺が? 人間に見えるのか? しかもいい人間!
「魔界人の集会に連れ出してしまったのは自分ですし、今回の一端は俺にも原因があると思うからです。それに逍はどこか危なっかしいというか」
「ほんとそうよねぇ。もう少ししっかりしてほしいわ」
「いまそこ関係ないだろ」
なんだか妙に気が合いそうな母親と秋山の態度に居心地が悪そうに、砥上が先ほどの秋山の台詞を真似た。
「冗談はさておき」と遥希が話を進めた。「このあとはどうするつもりだい」
かつて駿河洲から河口水瀬に出した甲駿大橋によって駿河洲、隣の甲斐大島、笛吹市のある甲斐ノ洲と繋がっていた笛吹大島だが、現在笛吹大島に至る甲駿大橋が落橋されていることで船無しでは何処にも行けない場所となっている。地形から船が出せるのは甲斐ノ洲笛吹市の岸の西北側となるが、秋山の話の通りに現在島に集落がないとするとおそらく甲斐ノ洲へ渡るための船も無いだろう。
「追手の状況はどうだと思う?」と砥上。錐歌の持ってきた砥上の写真によってあの家を特定できたとして、そこからは秋山の魔道具によっての移動だ。敵とは移動の直前にお互いを確認したが、この国に流通していないツールを使用している。目の前でのマジックショーに向こうも混乱してくれているといいのだが。
「読めねぇな。ジャンプ・ツールは消滅式を使ったが、向こうがどれほど魔道具について知っているかどうかだ」
「相手人間でしょ」
「シェザーと取引してた奴なんだぞ」
そうなのだ。実際にシェザーが用があったのは秋山で、奴はついでに誰かに頼まれて砥上を誘い出そうとした。これまでの話の流れからいくと、シェザーとその取引をしたのは左右雀という人物で間違いない。魔界の商人と取引があるということは、魔界の道具について知識があるということなのだ。
「ある程度時間がかかっても、アタリくらいはつけてくるはずだ」
「奴はプロだ。プロはそんなに時間はかけないよ」
遥希が訂正した。完全な魔界人でもなく、人間でもないという立ち位置がそうさせているのか、秋山守人は用心深い。彼を友人にして息子は正解だった。でなければとっくに左右雀に見つかっていただろう。
おそらく生まれてから逃げ続けてきたであろう遥希の助言を秋山は重く受け止めた。厄介な星の下に生まれついたせいで、過剰なほどの用心深さで生きてきたと自分でも思っている。だがやはり予想による予防と実践からの学びとは違うのだ。
「ここに出たってことは、何か策があるんだよね」
砥上のみならずその両親までもが期待を込めた眼差しを秋山に向けてきた。なにしろこれまでもこれからも頼みの綱は彼だけなのだ。
「あるわけねぇだろ。手持ちのジャンプ・ツールで一番遠いところまで来れるのがここだったんだ」
「マジ?」
「大本気だぜ」
焚き火の向こうで砥上遥希が大きく頷いた。
これまでの話を聞いていたところ、彼らの行動は完全に後手に回っている。それでもこうして何とかなっているのは秋山の機転があってのことだろう。
「島の港に行けば手漕ぎ船くらいは予備ががあるかもしれない」
以前にこの場所を訪れたことがあるという遥希が提案した。
黒岳の河口水瀬側に面している崖は厳しく、とてもじゃないが素人が歩ける場所ではない。そう考えると進む方向は島の内側になる。
「運がよければハイキングコースが埋もれずに残っているはずだ」
避難小屋がこの有様では、長いことハイキングコースも使われていないに違いない。このあたりの山はそれほど険しくもなく標高も低いことから初心者や軽めの登山を趣味とする人々に人気のはずだったのだが。
「いえ、歩くよりは飛んで行ったほうが早いでしょう。遥希さんは俺が連れて行きます。おい逍、お前そのままでいけるか」
いきなり振られ、砥上は言葉に詰まった。空を飛べということだ。しかも母親を連れて。これまで彼は秋山からの忠告もありいつも鳥に変身して飛んでいた。だが実は、人間の姿のまま飛んだことはまだなかった。
「じゃあ変身しろ」
遥希の話を聞いて一刻も早くここを移動するのが正解だと強く感じていた秋山は、すぐに返事をしない砥上に舌打ちした。
「お前がゆき子さんを背中に乗せていくんだ」
「ちょ、それは」
「ぐずぐずいうな」
いい放つと秋山はボタンダウンのシャツのポケットから血液パックを取り出した。砥上の両親の目も気にせずストローを差して気に飲みほす。度重なる魔力の使用に回復が追いつかないのだ。
「外で待ってる」
血液パックを火の中に捨てて立ち上がった秋山は砥上の両親を見下ろし、外へ出るよう促した。