神と神話の理想と現実。
長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉
7、霧の向こう側①
湖澄はパーカーを外し、顔を晒した。と言っても壮汜の姿だが。
「瀬保」という名に芦川の顔色が変わったが、そのことに関して何もいう気はないようなので湖澄もあえて気づかないことにした。余分な話をしている時間はないはずだが、湖澄はこの偶然の異分子とも言える男に声をかけた。
「あなたは何者なんです? なぜここにいるのですか」
「お、俺は島を管理する公園管理局の者だ。名前は芦川喜太郎。見回りの最中で、彼らを見つけた。この小屋はもう長いこと使われてないんだ」
両手こそ上げはしなかったものの、芦川と名乗る男はおどおどした様子で答えた。改めて問わずともサファリジャケットの上からつけたベストの胸元に証言通りの情報の刺繍が施されていた。
「おい、質問しているのはこっちだ」
自分を無視したやり取りが気に入らないのか、秋山がこれみよがしに銃を振った。仕事中に見る彼はとてもリラックスしているが、流石にこの状況でそれは無理というものか。きっとどこかで、砥上に目をつけられたのは自分のせいかもしれないと思っているのだろう。
「私の目的は砥上逍遙、あなたを助けることです」
秋山の手の中の銃など意に介さず、湖澄は斜め後ろに立つ砥上を見る。その姿は人間で、錐歌の報告にあったような大型の猛禽類の姿ではない。
「俺を知ってるの」
砥上の頭の中に、目の前の男に関する記憶はない。いつも遊ぶ仲間が知らない友達を連れてくることが時々あったが、彼は初めて見る。
「いいえ。ですがあなたを追う存在を知っています」
「追う……さっきもそういっていなかったか」
先ほどの無線を芦川は思い出した。相方の最後の無線の内容は、「逃亡犯」についてだった。耳にしてすぐは「逃亡犯」という言葉に緊張したが、その前に交わした雑談からもいまの様子からも彼らからはそんな危うい単語から連想されるような危険人物や罪人といった様子は窺えない。しかも「追われている」と口にしたものの、その佇まいからは何故か緊急性が感じられない。ただし、この一家を守るように気を張って立つ秋山以外は。
「そう、私たちはずっと追われていたんだ。でも相手がわからない」
遥希が前に出てきた。隠すようにゆき子を背にしている。
錐歌のおかげで彼女のいう「鳥男」が砥上だと判明した時、湖澄は彼の両親について調べた。記録では、砥上逍遙の出自は戸籍と同じ富士市となっているが、その両親の記録は曖昧だ。富士市に入る前の住所は大きな台風災害があった場所で、それ以前の記録が残っていない。錐歌から連絡を受けた直後、短い時間で伝手を頼って急いで調べたが、おそらくそれ以上時間をかけたとしても何も出てこないだろう。砥上遥希は身を隠す方法を知っている。生まれ持ったものなのか、逃亡の末に身についた習慣か。
「教えてくれ、私たちを追いかけまわすのは誰で、どんな理由からなんだ」
「彼らは『橘』。ある特定の存在を狩る、陰陽寮の闇の部隊です」
「ある特定の」
遥希の記憶の中で、幼い日に家から連れ出された光景が蘇る。「風を操る一族。私たちのような一族のことなのか」
そうなのか。
やっぱり逃げ続ける運命なのか。
唇を噛む遥希の背中で、ゆき子が防寒ジャケットを強く握りしめているのがわかった。囲炉裏の火はまだ消されておらず、小さな小屋は十分に温かいはずだったが、そこにいる誰の顔も緊張したように血の気がなかった。
「遥希さん、やはり聞いていたのですね」
「聞かされたのは、それだけだ」遥希は首を振った。
もう2度と逃げて暮らすことはないと思っていたのに。
「てめぇ、どこまで知ってやがる」
散々銃口を突きつけても効果がないと知った秋山が銃を下ろし、瀬保と名乗った湖澄に手を伸ばしてきた。
「あなたは秋山守人、4分の1だけの吸血鬼ですね」秋山の動きは早く、彼らの会話を見守っていた芦川の目では捉えられないほどだった。だが瀬保は彼の動きを読んでいるかのように、逃げるというよりも散歩のようにゆっくりした足取りでその手から逃れる。信じられないといった表情で空を切る自分の手を見る秋山に、湖澄は続ける。
「私の情報は錐歌・オーチャードより提供されたものです」
水の中を泳ぐ魚のような動きをする相手の口から知っている名前が出て、秋山は砥上と目を合わせた。廃美術館に現れた錐歌が口にした言葉を思い出す。
「『お池の巫女』の関係者か」
「その通り。朝霧高原で観測された異常魔力について調査を依頼しました」
相手が幼馴染だからといって、錐歌が進んで依頼主の名を出すとは思えない。きっとつい口をついて出たのを聞きつけたのだろう。だがおかげで説明する手間が省けたというものだ。この周辺の魔界人を監視する役人である彼女の名を出したことで、瀬保を名乗る湖澄への秋山の不信感が薄れたように感じた。
「じゃあ本当に味方なんだ」
安心させるように砥上は両親に笑いかけた。ここに出現してすぐ秋山が始末したペンダントは車のナビシステムともブルートゥースで交信出来た。GPS発信機能もあるだろうから、情報としてそれを提供されればこの場所は簡単に見つかる。秋山の様子からも、この人物が錐歌をどうにかして自分たちの居所を入手したようには見えない。大体、あの錐歌がそう簡単に敵なり何者かにどうにかされるようには思えなかった。
安堵するような表情の砥上とは反対に、いまいち事態を把握できていない人間もいる。
「待ってくれよ、何が起きているのか俺にも説明してくれ」
芦川だ。
「あんた達が追われているのは分かった。でも俺はどうなる」
国の組織に追われる家族と魔界人に関係して、無事でいられるはずがない。
「この島の管理局員だといいましたね。なら、この島に詳しいですか」
出発前に時江に見せてもらった島の地図に、手書きで管理局の詰所が書き加えられていた。信じられないことだが、政府は禁足地であるこの島を国定国立公園としていて、管理局の詰所周辺では自由に釣りができる場所となっている。
「もちろんだ。俺はこの島で生まれ育った」
少しだけ、瀬保の眉間に皺が寄った。何かまずいことでもいったのだろうか。
「ここは30年前のテロリスト掃討作戦の後から禁足地になっているはずです」
「その30年前に、島から追い出された元住人だよ。作戦が決行された当時俺は東京の大学に通っていた。長期休みに帰郷してみたら家が市内になってたんだ。市内への強制移住の期限はたった三日だったって聞いたよ」芦川の表情が苦虫を潰したようになった。
「だから卒業後に国立公園の管理公社に入ったんだ」
島に隠れたテロリストの掃討戦の決行における島民の強制移住に際して、当然ながら反発があった。だが武装した執行部隊に誰が逆らえよう? 政府はその不満を和らげるためか、水瀬で行われていた伝統漁の継続や条件付きの島への立ち入り、遊漁券での商売を許していた。地の人間である芦川が勤務地として希望した通りに島の管理につけたことも、そういった理由からかもしれない。
「故郷で何があったのか、子供の頃に遊んだ島の隠れ里の子供がどうなったか知りたかったんだが」
芦川の言葉が止まった。苦しいままの表情を見ると、知りたかったことは未だ解決していないのだろう。
「水瀬での漁師の村以外にも里があったのか」
かつて島を歩いたという遥希に芦川は頷いた。「隠れ里はハイキングコースからも外れた、神座山の下にある小さな集落だ。親たちも存在は知っていたが、島の外の人間には話ちゃいけないことになっていた。住民票どころか、戸籍もあったか怪しい里だった」
「じゃあ、テロリストっていうのは」
「世間に向けて正当な事件にするための捏ち上げです。掃討戦の対象は隠れ里。真相は古い神の子孫といわれる一族を消すための、『橘』における作戦。それは極秘で行われ、関係者には箝口令が布かれたと聞いています。マスコミはおろか他の洲や市町も知らないでしょう」
瀬保の答えに、問いかけた遥希も納得した。逃げている最中も、逃げることを止めていたこの二十数年間も彼は、自分なりの情報収集だけはしていたつもりだった。いつ逃げるかわからないので身を寄せたどの町でも町内会には入っていなかったが、家の周囲のみならず市内全般の事件や不審者情報など、注意深くチェックしていた。もしこの事件が公になっていたならば、絶対に自分の興味を引いたはずだ。
「神の子孫なら皇帝の親戚じゃないのか? 政府が村を攻撃する意味が分からん」
「古い神です」瀬保はもう一度芦川に繰り返した。「皇帝の祖とする天照は天ツ神、天から降りてきた神です。対して古い神は國ツ神。彼らに蹂躙されたこの地の元々の神です」
「蹂躙? 天照は喧嘩ばかりして大親島を壊した古い神々を説得し、仲間の神々と共に協力して穏やかな国を築いたんだろ? 皇帝は神の声を人々に届け、神と人の間を取り持った」
芦川は誰もが学校で道徳として聞かされる模範的な回答をした。が、それに対し秋山が鼻を鳴らす。
「説得? 喧嘩を止められるのは喧嘩だけですよ。仲間の神々が手伝ったっつうのは軍隊を連れた部下を派遣した。要するに武力で制したってことだな」
「そういうことです」
秋山が常識外の動きをしたのも、彼が魔界の人間であるなら納得がいく。名前もさることながら流暢な日本語から国籍は日本王国かもしれないが、国の外から来た魔界人の青年の解釈に、芦川の息が詰まった。
あの里は秘密の村だった。島の連中以外には決して口外しないしないよう口止めされてきた。島の村と隠れ里は互いに助け合い、家族のように付き合ってきた。
誰かが島の外に秘密を漏らしたのだ。その証拠に、引っ越した後に家族の口から隠れ里の話を聞くことはなかったし、市街で島にいた人間と顔を合わせても話もしなくなった。
みんなあの島での生活が無かったかのような顔をしていた。
彼らがテロリスト集団だったなんて誰も信じていなかったのに、どうして政府の説明を鵜呑みにしてしまったんだだろう。「テロリスト掃討作戦」の字面が正しいなら、意味は表現そのままの虐殺行為。これまでは隠れ里が巻き込まれと思っていたが違った。
逃げ込んだテロリストという説明は隠れ里を意味していたんだ。
つまり瀬保の説明が正しいのだ。
隠れ里が心配で公園管理の職員になったというのに、何故俺は一度だって彼らの里を探そうと足を向けたことがないんだ。
湖澄には芦川の胸中が痛いほどわかった。普通なら思いつくこと、行動しているはずのことが出来ないその違和感。
何かの意思の下に置かれた存在が持つ違和感だ。
本当なら気づくことのないその違和感に気づいてしまった。そしてそれを誘発したのは砥上家や自分の存在。
彼をこの争いのどの深さまで連れて行けばいいのだろうか。
「仮にこの島の人たちが瀬保さんのいう『古い神の子孫』だったとして、神さんや俺たちを追いかけ回す『橘』って何だよ。だいたいもう神話の時代は終わったんだぜ。神さんが実在していたとしても害のない人達を殺すかな」
国の礎の話として子供の時から聞かされてきた神話を御伽噺として口にする。人ならざる存在になろうとしつつある砥上本人でさえそれを史実として認識していない。これが神存の国と呼ばれるこの国の現状だ。ただし、神話がかなり穏便な物語に脚色されているのはいうまでもないので、国神が穏やかな性質を持った優しい存在であるとも信じられていても仕方がない。
誰も神がいるとは本気で信じていない。
それに国神は慈悲深いものであるとも思っている。
だがしかし、ここにいる誰ひとりとしてその存在を目にしたことはないのだ。
もちろん湖澄さえも。
「もし家の庭にスズメバチが出て、近くに蜂の巣があったらどうします? 巣ごと駆除するでしょう? 今は自分に害がなくてもいつかは出る。自己防衛こそが国家保全の第一歩。侵略者じゃなくても国を統べる機関の基本防衛としての考え方です」
これまで世界は、その考えに基づいてどれほどの争いを繰り返してきただろうか。
「『橘』が狩るのは、国神やそれに関する存在が敵と見做した存在です」
「神にも恐れを抱かせる、か」
固まるようしてに立つ家族にを秋山は見た。砥上はともかく、両親はとてもそんな風には見えない。
「そういうことです」
瀬保の答えは短いものだった。『橘』という名の特殊機関が国神に敵対する存在を狩る部隊だということは分かった。だがそれだけでは何故この一族が追われ続けるのかの説明がない。
「もったいぶるな。こんだけ長い説明しといて肝心なことは言わず、ひとことか」
「ひとことで十分だ」
再びの短い答えに秋山の背筋がぞっとした。いきなり下がった声のトーンやぶっきらぼうな言葉尻のせいではない。僅かに瞳を寄せて斜めに自分を見るその眼に、とてつもない畏怖を感じたのだ。
錐歌が落としたあの写真の砥上の眼にも似た、暗く底の見えない影を。
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