きんの砂〜3.預カリマス(5)
夕方になり、故旗持瀞路邸の公開期間が終了した。
芝生の上でピクニックシートを広げていた家族も走り回っていた子供たちも、縁側に腰掛けて談笑していた拝観者も皆いなくなってしまった。
ただひとり、庭の北西に位置する茶室に入ったまま出てこない少年以外は。
この屋敷の公開を担当した市の職員や警備員、夫の弟子たちを玄関で見送る慶子をお手伝いの初江は見た。
「奥様、やはり私はもう少し」
声が少し震えている。長らく家の手伝いをしてくれた彼女にも、今日で暇を与えなければならない。だが声を震わせているのは仕事が終わることへの寂しさからではない。
「いいえ。私のことは大丈夫です」
主人を一人にさせてしまう不安が震えとなり表に出ているのだ。初江がこの玄関を去れば、彼女と同じくらいに年老いた主人はあの少年と二人きりになる。
「もう、大丈夫にならなければいけないのです」
不安げに見つめる初江に慶子は微笑みかけた。彼女はずっと心の支えだった。まだ若い頃の夫は世間に認めてもらおうと躍起になり留守がちで、娘と二人この大きな屋敷で過ごす日が続いたときも、初江は泊まり込みでそばにいてくれた。その娘も遠くに嫁ぎ夫は死に、今では彼女が最後の家族のようなものだ。
もういいかげんに彼女を解放してあげなければ。今度こそ本当の家族の元へ返してあげるのだ。
文化財として市に寄付したこの家はすでに個人のものではない。だからこの家を最後に出るのが残された自分の役目である。
「初江さん。本当に、今日までありがとう」
これ以上何を言っても無駄だと感じたのか、初江は黙って頷いた。そして玄関の上がり端に置いておいた荷物を手に取ると、深々とお辞儀をする。
「私はいつまでもこの家のお手伝いです。家の事で何かあるようでしたら、いつでもご連絡ください」
「そうね。その時はまた、頼みます」
主人の最後の言葉を耳にして、彼女は玄関を出ていった。
だが、見送るべき人間は後一人残っている。
黒板石の玄関を戻ると、慶子は台所へと向かう。夫が入院してからというもの、初江は勤務時間を伸ばして夕食まで付き合ってくれていた。二人で台所に立ち夕食を作る時間は本当に楽しかった。
久しぶりにひとりで立つ流しは寂しいものがあったが、包丁を取り手を動かしていると自然と鼻歌が出てきた。そうして支度をした2人分の食事を、野点をするときに使う桶に入れて外に出る。夜間拝観用のライトアップは昨日までだったが、今日まで残しておいてもらった。幻想的に照らされた庭を横切り、北西の茶室まで歩いていく。
木々に隠れるように佇んでいるせいか、池に流れ込む小川の起点となる泉の上に位置するこの茶室の存在に気づく拝観者は、ごく僅かだったはずだ。その中にはあの少年、明るい頭髪の少年もいた。
そして彼は、今も茶室の中にいる。
換気のために僅かに開かれたままの窓の隙間から少年の姿を確認すると、慶子は思い切って躙口を開けた。
畳に正座していた少年が驚いて後ろに手をつく。驚きすぎて声も出ないのか、あんぐりと口を開けている。誰もいないと思っていた庭からいきなり人が現れれば当然だろう。
「ああ、ごめんなさい」
混乱する少年の耳に入るように、慶子はわざと大きな声を出した。
「逃げなくてもいいのよ」
呆気に取られたような顔で少年が見返すが、どうやら悪気が無いことは伝わったようだ。静かに、慶子に目を止めて次の言葉を待っている。
「少し、老婆に付き合ってちょうだい」
手にしてきた手桶を中に入れ、自分も入り戸を閉めた。
少年は相変わらず訝しげに眺めているが、危険はないと見ているらしい。沈黙で答えたが逃げる素振りは無い。
「お腹は空いてないかしら」
小さなポット、箸、薬味の入ったタッパー、急須と畳の上に並べていく。最後に取り出した楽茶碗にはラップがかけられていた。
「あなた、いつも長いことここにいるのね」
一体何を始めるのかと見ていた少年はそのとき初めて、すでに拝観時間が終了していることに気がついた。いつもは追い出すように終了時間を告げにくる市の係員が、今日は来なかったのだ。
それに確か、今日が公開期間の最終日だ。最終日は夜間公開はしないと案内が出ていた。
「名前を聞いてもいいかしら」
前触れもなく姿を現したこの老女については、なんとなく知っていた。公開初日に父親に連れられてきたときに玄関で見たこの家の住人で、少し前に亡くなった家の主人・旗持瀞路の妻だ。
「僕は、花村一騎です」
早口で消えてしまうほどに小さい声だったが、慶子は少年の名を知っていた。明るい髪のこの少年は毎日、家を訪れるたびにちゃんと拝観者名簿に名前を記入していた。公開期間中毎日訪れる人は他にもいただろうが、これ程長く時間を過ごした人はいないだろう。
「素敵な名前ね」
ラップを外した楽茶碗を一騎の前に置き、箸おきに割り箸を置く。タッパーを開くとふたりのちょうど真ん中あたりに並べて行く。
「好きなものを入れてちょうだい。最も、若い人の好みは分からないから無いかもしれないけど」
茶碗の中を見た一騎は少し戸惑った。そこには緑色の抹茶ではなく、真っ白な飯が盛られていたからだ。そんな彼の戸惑いなど無視するかのように、慶子は取り箸で取った具を自分の茶碗のなかに放り込んでいく。彼女が箸を置いたので、同じように一騎もタッパーの中から具を選んで白い飯の中に並べた。最後に老女の手で摺りたての山葵と茶が注がれてできたのは、お茶漬けだった。
「いただきます」
両手を合わせ軽くお辞儀をした後、温かい湯が注がれた茶碗を手にした慶子は音を立てて口の中に流し込んだ。そして音が止んだかと思うと、「あー」と満足げに息を吐き、「美味しいわね〜」と満面の笑みで続ける。
「私ね、一度でいいからこうして食べてみたかったの」
慶子がにっこり微笑むと、それまで困惑していた少年の顔にも笑顔が生まれた。さすがに思春期の少年が満面の笑みを返してくれることはなくはにかんだ笑みだが、慶子にはそれで十分だった。
「だってお茶漬けは、音を出して食べた方が美味しそうじゃない?」
彼は遠慮気味に、だが慶子の真似をするように楽茶碗に口をつけ茶漬けを流し込んだ。
しばらく、狭い茶室に2人が茶漬けを啜る音だけが響く。結局少年は2回お代わりをし、用意した飯櫃を空にした。
「あなた、その髪も素敵ね」
空になった楽茶碗に番茶を入れて飲む頃には、慶子も花村少年も足を崩していた。
「もう、染めないと」
少し気恥ずかしげに下をむき、彼はやや長めの前髪を手で弄る。付け根が延び、黒髪が目立ち始めている。
「あらいいじゃない。金と黒のコントラストで。メッシュっていうのかしら」
彼は少し的外れな回答に歯を見せて笑うだけだった。
「いつもその書の前にいるけど、好きなのね」
少年が背にしたショーケースへと慶子は目を移した。彼女が来た時もまた彼はそのケースに正面から向き合っていた。ケースの中に収納されているのでページを捲ることはできないが、見開きのたった2ページからでさえ少年を魅了する力が溢れ出ているのか。
そう考えると、なぜか死んだ夫に対して嫉妬心が生まれてくる。
彼は死んでもなお、自分の存在を世に向かって叫んでいるのだ。
「好きというか」
途中まで答えて、一騎は言葉を探す。好きとか嫌いとかでこの書を見にくるのではない。
「この家を見に来てるんです。でも、気がつくとここにいる」
彼は進路に悩んでいた。まだ高校1年生でこれまで人生について考えたこともなく、むしろ早いとさえ思っていた。だけど公開初日に父親に連れられて来たこの家を見て、忘れていたことを思い出したのだ。
次の日から友人の遊びの誘いも断り、毎日通った。家を構成する全てを目に焼き付けたいと思った。
「何か悩みがあるのね。それならいっそやって見たらいいじゃない。どうすればいいのか考えるんじゃなくて、やってみれば答えが出るんじゃなくて」
茶碗を手の中で転がし、楽しげに口にする。そんな簡単に挑戦できたら悩むことなんてない。
理解者のような顔をして、結局この人も他人なんだ。
「いま、がっかりしてるわね」
まるで心を見透かしているかのように、彼女はまた口を開いた。
「私はあなたじゃないから、どうして考えていることを行動に移せないのかわからないわ。その髪のように、素敵だと思えることをやってみるのよ」
「何も変わらないでしょ?」と微笑む。
「髪の毛を染めるのは簡単だよ。すぐに元に戻るし」
人生を決める進路と、友達に言われて髪を染めるのは同じじゃない。
「それに素敵でもないし」
思わずついて出た言葉にハッとした。正直友達の金髪の頭を見ても何も感じなかったし、染めるつもりもなかった。
だけど彼らが言ったのだ。
「染めたらいいぜ」
何がいいのだろう。
髪に触れていた手をぎゅっと握る。
染めても変わらなかった。
老女の言葉通り、何も変わらなかったのだ。
見た目が変化した事への反応なら少しはあったが、予想内だ。それ以外は生活も性格も環境も、根本的なことは何一つ変わらない。結局行き着く先は同じ場所なのだ。平穏無難な道を楽しく行くか、大変な道を行くか、途中まで努力して逃げるか。
人生なんてどれをとっても同じなのではないだろうか。
きっと「相応の人生」というものがあり、どれほど夢見てもたどり着けないと決まっているのだ。
でも心の何処かでは明るい未来を信じたいという淡い期待も抱いている。
だからこそ前に進めず悩んでいるのだ。
「未来は……成りたいものと成れるものが違うから。やりたいようにしていたらきっと、どこにも行けない。せめて途中まででいいから、未来が見えたらいいのに」
そしら安心して先に進める。
例え夢に描いた理想でなくても
「よくいうでしょ、未来が見えたら人は努力しない。それに未来が見えないのは常に変化してるからよ。人生は見えないところで動いているの。地球とおんなじね」
クスリと笑って続ける。
「あなたがやりたいことは何?」
茶漬けの支度をしている間中、どんな話をしようかと考えていた。慶子の子供は娘だけで、親が言うのも変だがさしたる苦労もなく嫁に行った。年頃の子供と話すのはずいぶん久しぶりだし、男の子と2人きりで話をしたことなどこれまでなかったが、考えていたよりもずっと楽しいし、素直に会話ができていることに内心驚いていた。
「建築家になりたいんです」
父に連れられてくるまですっかり忘れていた、幼い頃の夢だ。
「父が、建築士なんです」
次の声には落胆の色が出ていた。
「大きな建築メーカーの」
小学生の頃までは純粋に構造物としての建築物に興味を持っていた。紛れもなく父親の影響でもあったし、パズルのような組み合わせで無限の空間を造れる点が好きだった。家には父親の造った建築模型もあり、それについてよく話をしてくれた。しかしある時彼は、それらは実際には一棟も建てられていないことを知ってしまった。どこを探しても家にある父親の建築模型の実物は存在しておらず、建築家としての父の代表作もこの世に存在していない。何故ならば、大手建築メーカーの家は工業製品であって建築物ではないからだ。建主の希望により工場で素材が造られ、現場で組み立てられる。父の引いた図面はすべからく会社の名前で表され、建築家としてどんなにいいアイデアやデザインがあっても、企業に在籍する限り建築士であり、建築家個人として作品を造ることはないのだ。建築士であっても誰でも簡単に建築家として独立できるわけじゃないことも理解している。
だからこそ、いち会社員として甘んじている姿を見るのが嫌になった。仕事に向かう父の姿に幻滅したのと同時に、建築物に対しての興味も薄れてしまった。どの建物も同じように見えるし、名だたる建築家の影にも父のような日陰の存在がいるに違いないと思うと、惨めで仕方なかった。
だがあの日、この家の公開初日に玄関に初めて立った時に目に飛び込んで、きた屏風に殴り書きされた「路」という字に足が竦んだ。
覚悟があるか。
そう、問いかけられている気がした。何故そんな風に思ってしまったのかわからぬまま、一騎は父親の背を追って家の中に入るとそこでもまた、彼は足を止めてしまった。
ただの書家が残した大きな家だと思った建物は、旗持瀞路の美学とそれを具現化することに傾注された職人の技が鎬を削り合うようにぶつかり合っていた。随所に施された日本建築の技術の高さ、指物や欄間といった豪華絢爛でありながら精緻な彫刻による拵え。そして声高に叫ぶ旗持瀞路の書画達。どれかひとつ欠けてもこの家は完成しない。どれひとつとっても、それ単体では用を成さない。
この家が文化財として残されるのは家の主人が書家の大家でも屋敷が大きくて広いせいでもない。まごう事なき名作建築のせいだと悟ったのはいうまでもない。
一騎の心は激しく揺さぶられ、前を歩く父親の背中を見つめた。
父親が自分をここに連れてきた意図はなんなのか。
ただ単に有名な日本家屋だから見せたかっただけなのか。それとも、憧れからだろうか。
「お父さんが好きなのね」
老女の声に喉が詰まる。嫌いではない。嘘つきだとも思っていない。
でも父親と同じ道を歩むのか。そして落胆するのか。建築家として表に出ることができない自分に。
「怖いんです」
あの日父親に対して抱いた気持ちを自分にも抱いてしまうのか。
「結局僕は父と」
「見えない未来を怖いと感じるなんて」
老女の言葉が遮った。
「滑稽だわ」
俯き加減だった少年が顔を上げた。
彼が瀞路の書に惹かれる理由。それはきっとあの書から、少年と同じ思いが滲み出ているからだ。
「知りたいのなら、その道を歩んでみるしかないの」老女は小さく笑った。
言葉は少ないが、正座をしてご飯を食べるところ、箸を上手に使うところ、優しく話すところ。彼はとても大切に育てられたに違いない。初日に明るい色の髪の毛が家の中を歩く姿に目を引かれたが、その近くにいたであろう父親のことは覚えていなかった。話の様子では最近はあまり父親と会話をしていないように感じられたが、それはこのくらいの年齢の子供にはよくあることだ。だがきっと父親は、彼が建築物に興味を持っていたのを知っていたから誘ったのだ。もしかしたら自分と同じ道を希望する息子の悩みも感じていたのかも知れない。
「歩いた道は全て正解なのよ。大丈夫。間違った道なんてどこにもないのだから」
ガラスケースの中の書は瀞路の肉筆だ。彼が自分のために書いた書を集め、綴じた本。まだ書家として大成する前の苦しい時期に書いたものばかりだ。
公開用に開かれたそのページには、玄関の屏風と同じ「路」という文字が書かれている。瀞路の名前の一部であり、生涯をかけて意味を探求した言葉であり、人生そのものだった。
ガラスケースの中の書の横には短冊に記された、瀞路がよく口にした言葉も添えられていた。
覚悟無き人間の前に道は無し。
茶室に入り短冊を目にするたびに一騎は、玄関の屏風からの問いかけを思い出すのだ。
覚悟は出来ているか。
いまならその問いかけの意味がわかる。
“お前は人生を歩む覚悟が出来ているか。”
だが残念ながら彼はまだ、覚悟はともかく人生の意味さえ見出せていない。
「これを持っていきなさい」
慶子は傍に置いた包みを前に出した。
それは今朝、あの古書店に預けようとして突き返された書画集だ。
「いえ、もらえません」
いやいやをするように一騎は首を振り、畳の上の包みを押し返そうとした。
最初こそ物見遊山で訪れたが、毎日通ってきたのだ。いまは彼の書の価値を十分すぎるほど理解している。金額的なことだけじゃない。旗持瀞路の書は、どんなに年齢を重ねてもこんな小さな人間が手にしていい代物ではない。それほど重く、意味のあるものなのだ。
「あげるんじゃないわ。押し付けるのよ」
さらに老女は両手で、文字通り押し付ける。
「私はこれを持っていたくないの」
「どうしてですか。形見でしょう」
正月に女性タレントが着ている豪華な着物みたいな風呂敷に包まれていることからも、彼女が書物を大切にしていることがよくわかる。
「形見ではないわ。これはね、私を死んだ夫へと縛り付ける鎖なの。この書画集だけじゃないわ。この家もね、私を夫に縛り付けるの」
慶子は心から瀞路を愛していた。だがその一方で、彼の妻でいることに苦しさも感じていた。
「夫は自由奔放で、でもだからこそ書家・旗持瀞路でいられたの。夫が自由でいられるために、私は不自由になることを選んだ」
夫を支えるために我慢してきたことはどれも大したことではなかった。子育ての時期とも重なり大きな願望を思いく暇さえ無かったと言ってもいい。子供が健やかに育ち、夫に不自由がなければいいと思っていた。だが同時に日々の中の小さな楽しみや希望さえも諦めなければならなかった。
「だからね、もう手放したいの。旗持瀞路の妻であることを」
そのために屋敷を市に寄付し、作品のほとんどを手放す手続きをした。
「だから、もらって頂戴」
※※※※※
陽が入り、薄暗い蛍光灯がアーケードに灯る夕方。小さなショーウィンドウの中に色とりどりのランプがついた。
「やっぱり、早くないかな」
満足げな顔で見つめる公宣に得馬はもう一度言ってみる。
「今日だけだし、もう来週は12月だよ」
電気のコードを挟まないよう公宣が注意深く店側の戸を閉めるその傍らで、得馬のスマートフォンからメッセージの着信を告る音が鳴った。
「行こう。花穂さんが待てないらしい」
入り口のカーテンを閉める時、得馬は午後から公宣と2人で取り付けた監視カメラが作動していることを確認した。そして、いつかの自分のように灯りにつられて誰かが訪ねてこないように電気を消す。公宣の後から店を出るときに振り返ると、天井の明かり取りから落ちた魚の鱗のような微かな光が、誰もいなくなった店内を回遊している。下から見上げた時は気づかなかったが、2階を突き抜けているガラスの柱には細い銀色のモビールがぶら下がっていて、それが光を跳ね返しているのだ。
花穂にはロマンチストだと笑われたが、これを見てもそう思わないのは不感症ではないだろうか。まだ彼らはこの光景を知らないが、そのうち気がついて見上げた時、きっと同じように感じるはずだ。
「来たきた」
開け放たれた部屋の窓の向こうから果穂が首を伸ばした。ルーフバルコニーには倉庫にあったストーブが置かれ、囲うようにアウトドアチェアが配置されている。
今朝の客人が帰った後、4人は二手に分かれて行動した。得馬と公宣は昨日の笠置の忠告に従い防犯用品や監視カメラを購入し、取り付けた。アーケードに面した狭いショーウィンドーに置いた小さなクリスマスツリーはついでにと、公宣が購入したものだ。
亞伽砂と花穂も台所の掃除や昼食の支度・後片付けの後に買い出しに出かけた。遺言が見つかり、しばらく出入りすることはないはずなのに何が必要かと思っていたら、彼女たちは窓枠に設置するタイプの日除けシェードと壁付用の外灯、人数分のアウトドアチェアを買ってきた。
「せっかくだから、使ってみたいじゃない」
何がせっかくなのか意味不明だが、彼女たちにとって白いルーフバルコニーは乙女心をくすぐる「素敵な場所」らしい。もちろん取り付けるにあたり男性チームの作業の手を止めさせたのはいうまでもない。お陰で監視カメラとおまけのクリスマスツリーの設置作業が伸びてしまったのだ。とはいえ薄暗い中に光る灯りとりは大きなランタンのようで、その横で縦長の古いストーブをチェアが囲む風景は確かに幻想的だ。
多分、小さな光の鱗が回遊する店内と同じくらい。
「やっと揃ったわね」
先に来ていた公宣が席についたので残った椅子に腰掛けた得馬に、亞伽砂からマグカップが手渡された。コーヒーを注ぎ可愛らしい赤のホーローのケトルをストーブの上に戻す。
「せっかくだから」との口実で亞伽砂と花穂が購入してきた4人お揃いのマグカップ。少しばかり角のある独特なフォルムと明度の高い4色のパステルカラー。大きさも重さも不思議なほどしっくりとくる。
「それじゃあ」みんなの顔を見回して、亞伽砂が口を開いた。「短い間だったけど、ありがとう」軽くカップを上げたところで得馬が洩らした。
「何だか閉店みたいだな」
「だって、しばらくは開けられないし、今日が今年最後だと思うから」
亞伽砂の頬が熱くなった。みんなに感謝の気持ちを伝えようとしたら自然と出てきた言葉だったのだが、得馬の指摘通りだ。これでは最後の集まりの挨拶だ。
「じゃあ、これからも。でいいんじゃない。ね、店主さん」
姉らしく花穂から出た助け舟に彼女はすぐに乗った。
「うん、それいい。そうしよう」
元店主の遺言が発見されたので、昨日の帰りに炬燵に座りながら当面のキンノコ堂の活動について話しあった。といっても一旦中止するしか選択はなかったのだが。これから遺言の開示手続きや両親だけでなく叔父や叔母への説明もあるため、年内にこうしてまた集まるのは無理だろう。花穂の結婚式もいよいよ来週に迫り、県外に出ていく彼女にとってもこれが最後の集まりとなった。
「頼りないなぁ。花穂姉に残ってもらった方がいいんじゃないの」公宣が茶化すと「それと挨拶とは別なの」と頬を膨らます。
「ちゃんと活動を開始したら、日曜日だって公宣に本を返しに行ってもらうんだからね」
「任してよ。店の経費で車も買おうか」
「閉店するための活動だから、無駄遣いしないの」
そんな姉弟のやりとりを見つめる得馬の眼差しに亞伽砂が気づいた。
「得馬さんだって、容赦しませんからね」
すぐさま横で「怖っ」と声を上げる公宣を亞伽砂はまた睨みつける。
「店主の仰せのままに」
くすくすと笑いながら得馬は店主の命を受けた。
「閉店する」と彼女は口にしたが、少なくとも亞伽砂を除いた3人は本気とは思っていない。亞伽砂本人でさえ取り敢えずの決定事項と考えているはずだ。
「ほら、コーヒー冷める」
いつまでも続きそうな戯れあいを花穂が嗜め、改めて亞伽砂がカップを上げた。
咳払いを一つ。そして息を吸い、吐き出す。
「キンノコ堂に」
合わせたわけでもないのに、みんなが声を揃えた。
キンノコ堂に。
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