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いい歯のために

顎義歯をはずす。水を出して汚れを落とし、やさしくブラシをかける。
小さな湯飲みに水を張ってそっとしまう。
Mのブラシでざっと歯をみがいて口をゆすぐ。フロスを通す。鏡を見ながらピックの先で歯と歯の間に何か挟まっていないか、さぐる。口をゆすぐ。
よし、下準備OK。
Mのブラシにデンタルペーストをつける。下の前から右奥にむかって表面を磨いていく。折り返して今度は裏面を磨きながら前に戻る。同様に下の前から今度は左奥へ。続いて上の前歯から右奥へ。戻って上の左半分、は空席。歯はない。しん…としている。上の左No.1の歯がはじっこ。その隣は空席。その奥は空隙。上あご半分、上の歯6本、取っちゃったから。

母は歯が丈夫なのが自慢で、33歳になるまで1点の虫歯もなかった。口の健康は胃腸の健康、ひいては全身の健康につながることでとても大切だよ、8020(80歳になったときに自分の歯を20本残そう)だよ、と口すっぱく言われ続けて大きくなった。言われはしたけど、小さい頃から甘いものが大好きで、鍵っ子時代に誰にも監視されずおやつを食べていた私は虫歯をたくさんこさえた。歯磨きはしているつもりだったけど。下手くそだったのだろう。そんなわけで歯医者さんには小学生の頃から一人で通った。おかげで歯科通いが習慣になって、大学生になって新しい街に引っ越してからも近所にあって診てもらえそうな歯医者さんを探した。相変わらずときどき虫歯になったし、クリーニングしてもらうとさっぱりしたし、セルフケアへのダメ出しやアドバイスが欲しかった。くいしん坊にとって歯はだいじ。ばりばり、むしゃむしゃ、なんでも食べたい。以来、学生の頃からお世話になる歯科クリニックに通い続け、今は家族みんながお世話になっている。

コロナ禍が始まった2020年の春、歯科検診に行った。1年ぶりだった。本当はもっと早く行くべきだったけれど家族のことや仕事のことで日常はめまぐるしく、自分のことは後回しになっていた。その3日後、クリニックから電話があった。「医院長がお話したいことがあるので来てください」と。
なんだろう。改まって?

急いで伺うと、検診で撮影したパノラマレントゲン画像を前にやや緊張した面持ちで医院長は告げた。「先日撮ったレントゲンですが…上顎が半分ないんです。ここ。左側。写っていない。なぜなのか…私にもよくわからないのです」
たしかに!ない!上顎半分が。
7本並んだ歯の上がぽっかり穴があいたように抜け落ちている。
「大きな病院を紹介しますから詳しく調べてみてもらってください」
紹介状とプリントアウトした口のレントゲン写真を貰う。
先生にわからない?もちろん私にだって何がなんだかわからない。
わからないことは調べてみるに限る。不安はあまり感じない。
何がどうしたのか、事実を知ることが肝要だ。

大学病院に移っていろいろ調べた結果、抜け落ちた上顎の奥に悪性腫瘍があるとのことだった。なんと…知らない間に私自身が私の中で悪いものを生み出してしまった…どうせ生体内で何かつくるなら真珠が良かったのに…アコヤ貝みたいに…。
「腫瘍とともに上顎半分、上の歯の半分も切除となる見込みです、真ん中の1本は残るかも知れない」えっ?えっ??歯がなくなるって…?
ぜんぜん痛くないし私は元気なのに。ついこの前はフルマラソンで自己ベスト更新したばかりだし。今年やりたいことの目標だってあるし。あれもこれもどうなっちゃうんだろう?何より8020って言われ続けてきたのに。
さすがにこの告知はこたえた。ケタ外れの想定外に遭遇すると受け入れ難くシャットダウンするみたい。そして私は気絶した。

失ったものの大きさは、失って初めて「本当に」理解できる。
顎関節の働きで口が開いて食べ物を取り入れる。上顎と下顎がかみ合うことで歯は食べ物を切り刻み、すりつぶす。細かくなった食べ物は舌と上顎を使って上手にまとめられ喉の奥に押し流され、飲み下される。口角からはみ出すことなく上手に。誰に教わったわけでもないのに、とても器用に、当たり前のことのように自然に。でも、これらの一連の動きが「フツー」になされることが驚異的なことだったんだ…。
生命活動を営むためには栄養を摂らなくてはいけない。そのファーストステップが口から始まることは幸せなことだ。誰かと一緒に美味しいね、きれいだね、と楽しく会話をしながら食事をする。食材の、食事の作り手に感謝する。空腹が満たされる、喉の渇きがいやされる、身体に滋養がしみわたっていく感覚。それもこれも、きちんと機能する顎や歯、舌、のどの働きのおかげだったんだ…

気絶した日からあと半年で5年を迎える。その後もいろいろ、いろいろ、いろいろあって、左腓骨、左長母指屈筋、左外側広筋の一部、腹部表皮の一部は、今は本来とは違う場所で働いてくれている。本当に辛く、悔しく、悲しかったけれども、たくさんの方に支えられて何とか乗り越えてきた。と思っている。
幸いにも病状は安定している。当初めざした「お寿司を食べられるようになる」「フルマラソンに復帰する」願いも叶えられた。私がたどった病の経緯についても、やっと自分自身のこととして受け入れて、周りの方に「こんなことがあったんだよ」と伝えられるようになった。

あの時、歯科検診を受けていなかったら。パノラマレントゲン写真を撮っていなかったら。かかりつけのクリニックがあって本当に良かったと思う。
今は落ち着いてきたので、定期健診や日常のケアはまたクリニックに戻ってお願いしている。そろそろ30年来のお付き合いだ。医院長先生にもずっと健やかであってほしい。とはいえそろそろ引退のころ合いが近づいているのだろうか、復帰してからの診察はお嬢さん先生が主に担当してくれている。

上の歯、表面、左No.1までやってきたブラシの先は、行き止まりで折り返して裏側に移る。この歯はとても大切なポジションなのに歯頚が露出していてブラシをあてるのにも注意が要る。実際、痛みも感じる。おっかなびっくり、時に見て見ぬふりをしていたら虫歯を作ってしまった。傷心。だから心を入れ替えて恐れずに、歯茎との境目を狙うつもりでブラシの先でやさしく磨く。続いて奥の方に進んでいく。ブラシを細かく振動させて、歯と歯の境界にブラシの先が入り込んでいく感覚を確かめながら。最後まで進んだら一度、口をゆすぐ。時間が許すならMSサイズのブラシに持ち替えてデンタルペーストはつけずに、同じ作業を繰り返す。そしてペンタイプのブラシで歯と歯の境界、行き止まりの歯の側面を磨いて仕上げる。何しろ残された歯は21本。もうこれ以上失うわけにはいかない。今あるものを大切に、ケアしながら使っていこう。口から食べる、自分の足で歩く。とても大切なことだと身をもって知ったのだから。そして声を大にして伝えたい。
「歯はだいじです!歯医者さんにいきましょう!」

#いい歯のために
#8020
#おいしく食べよう



 

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