最近のこと
社会に出てから、3ヶ月が経った。
もう間も無く4ヶ月が経とうとしている。
初めのうちは難なく仕事をこなせているように感じていたが、
仕事に手がつかず、食事もままならず、飲食もできず、吐いてばかりの日が続いた。経口補水液を飲み、栄養に良い食事にし、無理矢理にでも起き、
それでも身体をひきづりながら仕事に向かっている。
家に帰れば、私にとって怖い父親が待っている。
私が人生で犯した罪。それはなんなのかと言うと、足が悪いと言うことで体調を周りに気にかけてほしいという、甘えや傲慢にも似た、その気持ちで下を向いたり、勉学や、運指、運動を怠っていたことだ。これが私の悔恨であり、罪である。それを私はすでに中学2年生で、自分の中にそのような感情があることに気づいていた。
尾崎豊の曲名を引用すれば贖罪なのである。中学2年生で、人は一人なのだ。
どんだけ愛している人がいても、はなしを聞いてくれる人がいても一人なのだと悟っていた。
私は周囲に「人を幸せにしたい」と口癖のように漏らすことがある。
それは、紛れもない事実なのだ。本心だ。社会人になってからも、色々な本を読んだり職場にいって上司や周りの年上の大人たちの会話を聞いているたびに、それは自分のエゴにしかすぎないのではないかと思うようになった。
家庭では少なからず、愚痴は言うものだし、「しんどい」と言う言葉も聞かなければならない。
私はそれに耐えられない節があった。その度に涙し、耐えられず、何度遠くに行きたいと思ったことか。
社会に出て、真っ当に職務をし、職場の人とのコミュニケーション(報連相)を怠らず、責任を果たし、社会人としてのマナーを守り、迷惑をかけない。
それをできるかというと、今の私の精神的な状態と肉体的な状態では不可能なのではないかと思った。
5月初めごろ、父がはちきれんばかりの顔をして、このような言葉を私に残した。
「仕事は初めからできないと言うんじゃないぞ。信用を失う。お前は裏切られる。」と。「おまえにいくら金をかけたと思っているんだ」と。
脅しなのか。これは一体なんなのか。
首を掴まれ、私の好きな本やCD、私物さえ投げ捨てて、全て捨てられそうになり暴力を振るわれ、蹴られ、殴られ、私の精神状態は悪化の一途を辿った。
でももう私は二十二歳だ。誰にも頼れないのだ。
父親に認めてもらうために生きているのか。
色々な本や雑誌を読んで勉強しているうちにわかってきたことが一つある。
このような連鎖を断ち切るためには、自分で物事を考え、優先順位をつけ、家での秩序を乱さない。勉強をし、自分が自分の親になることだと。自分で自分の機嫌を取るためには、自分で自分をコントロールする必要があると。
でも本には綺麗事しか書いていない。本通りに行くのが人生ではないと。
人に教えを乞う前に、一度自分で考えたり、調べてみたりする。それでもわからない場合は聞くこと。論語による「知行合一」を実践している。だが、現実はそううまくいかず、涙することもしばしば。
不足の事態も起こるのかもしれない。私は、その不足の事態に備え、少しずつだが、日記を書いたり、詩を書き溜めたり、自分の思いを、矛盾しているが少しずつ見せないようにしていった。(所謂隣人と距離を取ること)
このような連鎖を断ち切るために、私はインスタグラムのアカウントの投稿を削除した。SNSも一つのコミュニティであり、私の感じていること、考えていることが周りに知られるのではないか、流布されるのではないかと言う怖さがあった。
そして自分の倫理観に自信がないため(若者のみならずどの年代にとっても、倫理観や価値観は人によって異なり生活環境も個人に委ねられるため)に、SNSの投稿を一切やめた。一貫した投稿もできないため。
私は倫理や哲学、論語、エッセイ、PHP、コミュニケーションに関する本を読み、社会人マナーを勉強するたびに、自分の浅さを知り、猛省した。
私が尊敬している元東大生の大津高志さんの言葉にこんな旨の言葉がある。
「勉強は自分を驕り高ぶるためにあるのではなく、自分の小ささを知るためにある」と。
つまるところ、勉強をすればするほど謙虚になるという自分なりの結論に至った。
先日、私が高校生の頃からしてやまない俳優の河合優実さん主演の映画『あんのこと』を鑑賞した。
彼女が演じたのは12歳の頃から売春を強いられ、依存的な母親から虐待を受け、ドラッグに走ってしまう20歳の女性。
香川杏。機能不全家族で育った女性の壮絶な人生ドラマだった。
自分にも少し当てはまるところがあり、共感することができたが、私はここまで酷くはないと安堵している自分がいた。
杏はそんな家族の中で育ってもなお、自ら更生の道を歩もうとし、優しい心根を絶やさない人物だった。
心のどこかで見たくないと思いつつも、目を背けたいと思いつつも、この映画が実話をもとに作成された映画だと知り、フィクションなのではなく、この映画がノンフィクションに近いものだと思った。
この現実から目を離すこと、やはり、以前見た「市子」という映画もそうだったが。
世の中には本当に家庭内には自由がなく制限されているものが多いという印象を受ける。
今も世の中で親だけでなく教師、あるいは会社の人などから暴力や虐待やいじめを受けている、または受けられていたという人が多いのではないかと思う。(単なる想像にしか過ぎないが)
人と人がつながり合うことはとても怖く、
けれど分かち合えた時は本当に心から嬉しさというものが込み上げることは確かなのだ。
世の中に愛について歌っている曲が五万と溢れているのはきっと人々が心の隅で愛を求めているからであり、それを知りたがっているからだ。愛は求めるものではなく与えるものだとエーリッヒフロムが教えてくれた。
自分の得た知識を与えることで初めて自立することができるのではないか。