【SSS:765字】氷の渓流
氷の渓流
私は歩いていた。都心の雑踏から逃れるように、人気のない裏通りへと足を向けた。ミステリー小説を読み漁る日々に飽き、現実の謎を求めていた。
そこで目にしたのは、不思議な光景だった。路地の奥に、一軒の古びた喫茶店。看板には『氷水専門店』と記されている。好奇心に駆られ、扉を開けた。
店内は薄暗く、冷たい空気が漂う。カウンターに座ると、無言で氷水が差し出された。一口飲むと、驚くほど冷たく、まるで渓流の水のような清涼感。不思議に思いながらも、もう一杯注文した。
二杯目を飲み干したとき、異変が起きた。周囲の景色が歪み、目の前が真っ暗になる。気がつくと、私は渓流のほとりに立っていた。周囲には鬱蒼とした森。どこか見覚えのある風景だ。
そう、これは昨日読んだミステリー小説の舞台そのものだった。小説の中で、主人公は渓流で謎の死を遂げる。私は慌てて逃げ出そうとしたが、足が動かない。
水面に映る自分の姿を見て、愕然とした。そこにいたのは、小説の主人公そのものだった。私は主人公になってしまったのか。それとも、私がずっと主人公だったのか。
頭の中で、様々な可能性が駆け巡る。これは夢なのか、現実なのか。それとも、私の想像力が生み出した幻想なのか。
突如、渓流の水が激しく渦巻き始めた。私は水に吸い込まれそうになる。必死に抵抗するが、力が及ばず。水中へと引きずり込まれる瞬間、目が覚めた。
汗だくで目を開けると、そこは自室のベッド。枕元には、読みかけのミステリー小説。ほっと胸をなで下ろす。だが、手元の氷水のグラスが、まるであの店で出されたものと同じように思えて仕方がない。
現実と虚構の境界は、案外曖昧なのかもしれない。私は小説を手に取り、もう一度冒頭から読み始めた。今度は、主人公の運命を変えられるかもしれない。そんな期待を胸に……。