母の実家の追憶
あらゆる記憶は次第に不鮮明になっていくようだが、幼年期の追憶のようなものは、時間が経過しても、そののちの記憶よりもよほど鮮明に残っているようなことがあり得る。
私の記憶の中では、母の実家とその周辺の記憶がそういうものの一つだ。丘陵の辺縁に人里が広がっているところで、平坦な沖積低地が主体となっている市域の中では例外的に小さな丘があちこちに点在し、その丘にはミカンの木が連なっている風景から成っていた。
母の実家の母屋の背後にも、そういう小さな丘の膨らみがあった。そこは母の実家の土地ではなかったが、隣接していて、実家の母屋と納屋を抱くようになっていた。
実家の敷地は車1台がやっと通れるほどの市道に面していた。その当時子供だった私はその道が狭いなどと感じたことはなかったのだが、今訪れてみると確かに狭隘なのである。
その道の傍らには水の流れる溝があり、そこにイトミミズが住んでいた。小さな小さな生態系がそこにあった。まだ雨水を流す下水道なども整備されてはいなかった。
納屋の裏手の小さな丘はどことなく暗ぼったく陰気な雰囲気で、母の実家に暮らす従兄たちは「あそこには狼がいる」と言っていた。だから夜に、外にあった便所に行くことは怖かった。
母の実家は農家であったから、玄関を開けると土間が広がっていた。そこは薄暗い空間であったが、納屋の裏手の丘とは異なり、親密であたたかい空気に満ちていた。
土間から奥に入ったところに、台所と風呂場のある空間があった。当時、風呂場と台所を仕切る壁はなかった。風呂は五右衛門風呂のような構造であったと思う。薪をくべて沸かしていたのだった。
なにしろもう60年近く前の記憶なのだ。ところどころ自分でも怪しい記憶ではないかと思っていたが、つい先日、母の実家を引き継いだ叔父の葬儀があり、自転車散歩の折にその家の前を通りかかったところ、叔母と従兄が庭にいたので挨拶したら、良かったら線香を上げていってくれと仰る。
もう立ち入ることはないだろうと思っていた母の実家を訪れる機会は、こういう偶然に恵まれて現実のものとなった。叔父の祭壇に線香を上げさせてもらうついでに立ち入らせてもらった「在所」の内部は、ほぼ昔の記憶通りで、部屋がいくつか増え、風呂場に壁ができたほかは、以前のままだった。
何度か地震があったが、造りはびくともしなかったと叔母は言った。旧い家だが、建て方が頑丈だったのであろう。
私は幼少期の追憶の断片が再び立体化して現れたような光景に、半ば茫然としていたようでもあった。自分の記憶の大半は正しかった。ほの暗い土間の空気に、何か子宮のような温もりを感じていた。
しばらくそうしていたかったが、冬の陽はすでに傾き、まだ寄らなくてはならないところがいくつかあったので、私は、その昔従兄たちと遊んだ庭の片隅に倒しておいたBSモールトンを起し、叔母と従兄に礼を言ってそこを辞した。
車1台がやっとの道を私は通り抜け、バス通りに出た後、また別の丘に登る坂道にペダルを回し、市内でいちばん有名な古墳が復元された公園に至った。そこは一帯を望む展望台のようになっている。
冬の陽がミカンの植えられたいくつもの小さな丘を照らしていた。私は再びBSモールトンのサドルに跨り、次の目的地に向かって走り始めた。