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友というものの在り方について
画像は2023年5月4日の岐阜県中津川市加子母。山守の内木家の近くである。田圃には水が張られて田植えの寸前だった。
何度も書くが、友人の訃報を知ったのが2月中旬だったので、もう3カ月になる。3カ月になるが、いまだにその衝撃から立ち直れないでいる。亡くなったのは分かっているが、まだ信じられないくらいなのだ。
自分が亡くなったとき、そうやって悼んでくれる友人がいるのかどうかわからない。伴侶や家族は別として、友人というものの立ち位置は微妙だ。
遠くから思う友人というのは、意外に少ないのかもしれない。疎遠にしていても、その人が自分にとって大切な友人だったいうこともある。
友人として比較的そばにいても、自分が消え去ったとき、その人が哀しんでくれるかどうかはわからない。そういうことを考えるのはうすら寂しいことでもあるが、それも人生の現実のひとつである。
そう考えると、哀しみという表面的にはネガティブにも捉えられる感情が、貴重なものでもあることが分かる。哀しみは哀しいものであるが、金では買えない宝石のようなものでもある。
その死を哀しむに値する友人を持てたことは、得難いことなのかもしれない。この世では、多くのものが傍らを通り過ぎてゆく。60年生きてきても、自分をそこに立ち止まらせるものは多くはなかったのかもしれない。しかし、故人はそうではなかった。そういう友人に出会えたことも、生きることに於ける数少ない恩寵の一つであった。
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