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防火用水を後にして(掌編小説)

 少年は海員学校の寮の前にある防火用水の中を覗き込んでいた。寮は木造だった。その当時は少年の通っていた小学校にもまだ木造の校舎があった。海員学校の寮は平屋で、壁は茶色に古びていた。

 全寮制のこの学校の生徒らは、近くにある普通高校と比べてあまりガラが良いとは言えず、それは小学校五年生の少年にもわかるくらいだったが、道を挟んだ校舎のほうでまだ授業が行われているからかどうなのか、少年のやっていることをじゃましたり、からかったりする学生はいなかった。
 
 小さなプール程度の大きさだった防火用水は、周りを針金の柵に覆われていた。その隙間は少年が竿のない釣りの仕掛けを用水に入れることができるくらい、充分に広かった。用水の中には緑色の藻が生え、そのあたりに朱色の金魚が動いていた。
 
 藻に囲まれた水中に小さな白い飯粒がたゆたっている。それは少年が針につけて投げ入れたものだ。最初はこんな小さな餌を金魚が見つけることができるのかどうかわからなかったが、数日前にここで一匹釣り上げることができたので、うまく行くこともあるのだと少年は理解していた。

 最初の一匹を手にしたことで、釣りというものに対する見方がすっかり変わっていた。捕虫網で昆虫をとらえたりするのとはまったく違う感覚だった。テグスを通して、水面下の魚とじかに交感するのだということがよくわかった。

 見ていると、飯粒によってきた魚はすぐには食わなかった。周りを巡るようにして、何度か飯粒に向かい合った。その距離が縮まったと思う間もなく、声がした。

「おーい」と呼びかけられて顔を上げると、道を挟んだ海員学校の門のところから教員らしき中年男がこちらに歩いてくるところだった。
「そんなところで釣りをしちゃだめだ」

 少年はすぐさま事態を理解し、大慌てで仕掛けを引きずり上げ、防火用水から離れた。男に背を向けて、走った。走った。寮のあいだを抜け、北側の松林の道のわきに止めておいた自転車に飛び乗って、漕いだ。教員が追ってくることはなかった。

 ここまで来れば大丈夫というところで自転車を止め、仕掛けを見ると、針がズボンに引っかかる寸前だった。それを外して、糸巻きにちゃんと巻き直した。

 半ば予想していた事態とはいえ、とっちめられずに済んで良かったと胸をなで下した。つかまえるつもりなどなく、ただそこで釣りなどやらないように注意するつもりだけだったのかもしれないが、面倒なことになるのは間違いなかっただろう。

 安堵する一方で、少年は今しがたのスリリングな逃避行に不思議な解放感も感じていた。自分はうまいことやりおおせたのだという気がした。そこには釣りとはまた違う、一種の迫力や臨場感があった。そういう気分を味わうのは初めてだった。

 途中までではあったけれど、自分はやりたいことをやった。今日はじゃまが入ったものの、こないだはちゃんと獲物を手にすることができたのだ。少年はそのことを思い出して、少しく誇らしい気持ちになった。
 
 けれども、彼はもう海員学校の防火用水で釣りをすることはなかった。防火用水で釣りを覚えて間もなく、内海の岸壁で海の魚を釣ることもできるようになったからだ。そこなら誰かの目を気にする必要も、逃げる必要もなかったし、釣れる魚もひと回り大きかった。ほどなくして、少年は竿も使いこなせるようになった。

 リールを使って仕掛けを遠投することも覚え、中学に入るとやり取りに時間がかかるような大物も手にすることができるようになった。

 そして少年が中学を卒業する頃には、海員学校の古い寮や校舎も建て直され、防火用水も取り払われてしまった。あの時代、あちこちに点在していた防火用水や用水池は、いつのまにか消え去った。そういうところで釣りをして怒られるような少年たちも、いまはもういない。

                               (了)

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