![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/10435841/rectangle_large_type_2_e1d4ff1b105035832fd963512c2ad861.jpeg?width=1200)
私の多次元的体験から #003
2011年の3.11の少し前に、私はそれまでに経験したことのない種類の多次元的な体験をした。
とはいっても、それは特別人を驚かせるようなことでもなければ、息を呑ませるようなことでもないだろう。
それは私の脳裏に想起されたことであり、見たのは私しかいないし、「そんなのはお前さんの妄想に過ぎない」と言われれば反論のしようもない。
だからこれから書くことは、「私にはそう見えた」ということに過ぎないのである。
その時節、大往生と言っていいだろう、高齢だった伯母の葬儀に私は参列した。子どもの頃にかなり世話になった人である。
火葬場で、棺に入った故人とお別れをする最後の空間で、私は伯母が自分の姿を上のほうから見ているようなイメージを持った。
あくまでもイメージであって、現実の空間の中ではない。
私ははっとなって周囲を見たが、私のように感じている人がいるようには見えなかった。
伯母は白い着物を着ていた。その表情は冷静で、棺に入った自分の身体を上から見ているような感じだった。
ほどなく、棺はその部屋から炉の前のホールに運び出され、読経の中、炉の扉に向かって台車に乗って推し進められた。
私は遺族らの後ろでそれを見ていた。
やがて開かれた扉の中に棺は入り、そして扉は閉められた。遺族のもとから故人は去ろうとしていた。
そのとき、それもまたイメージだが、扉の方角に、誰かが立っているのを感じた。方向的にはそうなのだが、それもまた現実の空間の中ではなく、私の脳裏の中だ。
その人は、真っ白いスーツを着て立っていた。
伯父だった。私がまだ十歳くらいの頃、長患いの末に亡くなった伯父だった。知的で責任ある高度に専門的な職業に就いていた伯父は、遺影にも特別に風格と知性があった。
その伯父が、伯母の手を引き、向こうへ行こうと促しているように見えた。真っ白いスーツと真っ白い着物を着た二人は、われわれに背を向けるようにして、前のほうに進んでいった。
伯父は、この3次元では40年あまり経過した時間の中で、どうやら伯母を待っていたようだった。
私は雷に打たれたように驚き、そしておそらくは遺族と少々違う出所の感情で涙が滲んだ。
これは葬儀に違いなかったが、伯父と伯母は、まるで結婚式のやり直しをしているように見えたからである。
それから今日まで、いくつかの葬儀に参列してきたが、私の脳裏に浮かんだ限りでは、迎えの来ない人はいなかった。
必ず誰かが迎えに来るし、その迎えの仕方もいろいろあるが、どれが良くてどれが悪いというようなことはない。生前に周囲から人望の厚かった人も、そうではなかった人も、それぞれに尊厳のある、異なる仕方で旅立ってゆく。そしてそのこと自体に、優劣や良し悪しがない。
家族の多かった人も、孤独だった人も、次の世界に導いてゆく誰かが現れる。
これは驚くべきことでもあった。
*
3.11のあともいくつかの映像を脳裏で見た。
言葉を選んで書くつもりだが、思い出すことが辛い人もまだたくさんいらっしゃるだろうから、その場合は読み進まないほうがいいかもしれない。
まことに無責任なようで申し訳ないが、私にはどちらがいいのかわからない。
あの日からしばらく、おそらく1週間ぐらいだったと思うが、自分が亡くなったということがわからない人々がたくさんおられたという印象を私は持った。
不慮の事故などで亡くなった人はしばしばそういう状態になる、ということをどこかで聞いたことはあった。
一方で、3.11直後から福島第一原発は危険な状態になっていることが報道され始めた。1980年代後半にチェルノブイリの真相が一部で伝えらるようになって以来、原発に関する書籍は関心のない人よりずっと多くを読んできたので、私も気が気ではなく、ろくに眠れなかった日もあった。
福島第一原発が2度の破局を迎える頃には私の神経も少々参っていて、月に一度くらいある「寺院のようなところ」の当番も、こんなことやっていていいのかと自問したくらいであった。
ところが、その当番に行ったら、毎日家でやるおつとめ(読経)の際に、震災犠牲者の供養を意図した一文を加えるようにという示唆があり、その文が書かれた紙片をもらって帰った。
そして翌日だったと思うが、その文面を加えて読経すると、それまでと違うイメージが脳裏に現れるようになった。
その光景については、小説の拙作「YAMABUKI」にも書いたが、この作は第15回伊豆文学賞の佳作入選となったため、著作権が静岡県に移行しており、そのまま引用というわけにはいかない。
しかし私の脳裏まで著作権に縛られているわけではないから、要約的にここに書くことは問題あるまい。
われわれがテレビなどの報道で見た現地は、夥しい瓦礫に埋め尽くされた惨状そのものだった。
現地に立てば、それは、惨状どころではないに決まっている。
しかし私の脳裏に浮かんだその海辺は、静かな干潟だった。
薄暮か朝なのか、やわらかい光に包まれており、家屋などの瓦礫や壊れた船舶や、流された車などはどこにもなかった。
そこで倒れている人々を助け起こそうとしている別の人々がいた。
倒れている人々はおそらく、津波で亡くなった方々であろうと思われた。
助けている側の人々には、僧侶のような宗教関係者が目立ったが、明らかにこの人は外国の人だろうと思われる人々もいた。
しばらく前に亡くなった、私の大師匠に当たるような人もそこにいて、助け起こした人に対し、「あちらに行くと良い」と別のほうを指差していた。
そこに何があったかと言うと、半透明のかなり大きな船だった。ガラスのようでもあり、水晶のようでもあり、どう見てもこの世のものとは思われない素材からできているようだったが、確かに船とわかるかたちをしていた。
最も私も震撼させたのは、しかし、その「巨大な水晶の箱舟」ではなくて、その船の船首に立っている神的な存在だった。
イメージの中の存在を定量的に測るのも馬鹿げてはいるが、その存在は、人間の背丈の10倍ぐらいありそうで、しかも人の姿ではなかった。
人の姿でもないのに神々しいというのは可笑しく聞こえるだろうが、それゆえにその存在は、わかりやすい人間型の神というより、はるかに畏れるべき異形の存在のように思えた。
異形だが不気味なのではなく、どうにも正視できぬくらい異様に神々しいとしか言いようがない。
その存在には、顔らしい顔さえなかったのに、あらゆるものを司るような説明しがたい威厳があった。
*
そういう光景を私はイメージ、あるいはビジョンとして見たのだが、自分でもそれは単に自分の妄想か想像に過ぎないのだろうと数日間は思っていた。
ところが、まもなくこういうことに詳しい先輩と会って、この人なら大丈夫だろうと思って自分に見えたものの話をすると、「同じようなことをネットで書いている人がいたよ」と言われ、はっとなった。
先輩によると、高度な訓練を積んだ人の中には、亡くなった人々をふさわしい場所に導くようにすることができる人がいて、そういう行為を「リトリーバル」と呼ぶのだと。
そのことに関しては詳しくないので、それ以上の言及は避けるが、どうやら、リトリーバルをやる人は、生きている現世の人間か、比較的近年に亡くなった人が適任らしく、そうでないと亡くなった人が認識しにくいのだということも聞いた。
3.11から日が経つにつれ、読経の際に見える風景も変わっていった。
干潟にはやがて螺旋状の階段を持つ大きな建物が出来上がり、人々はそこを歩いて登って天界に向かうようになった。
亡くなった人を手助けしているのは宗教者ばかりではなかった。
私がいちばん衝撃を受けたのは、ある日、干潟に降りていたプロペラの第二次大戦機だった。
アルミの銀の地に緑のまだらの迷彩を施したその機体は、私には「隼」に見えた。
そしてパイロットは、当時の飛行服であったカボックを着ていた。格好からして、私は、この人は陸上から特攻した人ではないかと直感した。
彼もまた、死者を助けようとしていた。この人はそのために、ここにずっと残っていたのではないかと思われて、しばらく泣けた。彼の最後の務めはそういうことではなかったのかと察せられた。
以上はもちろん、ただ私の意識の中にイメージとして生成されたものに過ぎないので、四次元以上の世界ではこういう風になっていると主張するつもりなど毛頭ない。
ほかにも3.11当時はいろんなものが脳裏に浮かんだが、今日はここまでしておく。
こんな文章が誰かの役に立つかどうかまったく心もとないが、ここまで付き合ってくださった方には感謝申し上げます。
ありがとうございました。
いいなと思ったら応援しよう!
![白鳥和也/自転車文学研究室](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/9719339/profile_48236eae18e1ef0baffe2296ad6515fd.jpeg?width=600&crop=1:1,smart)