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様々な意匠(カンパレコードFD讃歌②)

カンパニョーロ・レコードのFD(フロントディレーラー)に込められた造形の美学は、ヨーロッパの文明史の非常に凝縮されたものでもあるような気がしてならない。
欧米の文明の形態的特質は、概して、その立体的造形にあるとも言える。2次元的なものより3次元的なものに、よりその本質が現れやすい。絵画だって、日本画や墨絵と異なり、油絵の具が盛り上がってひとつの表現となる。
より要素の多い次元を目指しているのだ、おそらく。
東洋の文明はこれに対して引き算的であるのかもしれない。2次元の絵画にも空白が忍び込む。一種の沈黙である。音楽にしたところで、伝統的な邦楽や雅楽の楽器の編成の厚みは欧米の近代オーケストラとは全然違う。ま、パイプオルガンを見りゃわかるんだけどね。

そういうわけで、特にこの時代、1960年代から70年代前半にかけての欧米の乗り物デザインは脂が乗り切った体を成しており、自転車パーツから四輪車、鉄道車両に至るまで、文明全体に共通のデザイン言語があったように思えてならないのだ。
四輪車のスタイリングデザインなどは、21世紀になってもこの時代を決定的に乗り越えることができず、チンクチェント、ビートル、ミニ等の21世紀バージョンが示しているように、過去の黄金時代のデザインの変奏で何とか市場の一角を確保しているように見える。
完全に新しい答えはもはや見つからないのかもしれない。そうでなければ、四輪車というものの在り方のバリエーションが限界に近付きつつあり、私の友たるアーチストがいみじくも述べたように、「もはや車というもの自体が賞味期限切れに近付いている」のかもしれない。

自転車パーツも機能を持つ機械の宿命で、ほとんどの場合、性能的には新しいものが優るに決まっている。
然るに、デザインや見映えというものはまたそれとは別なので、新しいものが最良であるとは限らない。だからこそ、アンティークやヴィンテージが存在するとも言える。
後代のものが何においても優っていると考える人が多いのは近代の特質のひとつであろうが、これは部分的には迷妄であり、発達史観の悪影響とも言える。そう言うとなんだが、IT能力の高い若い世代の人が、ITに関心のない先行世代を頭の足りない人々と考えるような傾向も、こういうところから出ているのかもしれぬ。おそらく、構造主義などというような言説は聞いたことがないのであろう。

「この国では(旧いものは)なんでも簡単に乗り越えられちゃうんですよ」というような意味のことを、大学の演習でフランス文学の教授が嘆いておられたことを思い出す。
ことは文学だけではなく、自転車道楽だって同じなのだ。自分が知らないからといって、時流とは別の文脈のカルチャーをよく調べもしないで簡単に否定してしまうようなことは、少なくとも大人っぽいやり方とは言えまい。
タイムラインに沿って、何もかもより良い方向へ進むわけではなく、その時代でしか成立しなかった美学のたぎりというものがあるのだ。FDだってMTBの登場とともに形態が変化し、それ以前の時代には、外側の羽根と内側の羽根が相似形であったのが、外側と内側で形状が異なるようになった。
むろんそのほうが機能的には合理である。外側の羽根はチェーンホイールのアウターギアにかかったチェーンを外側から押すに対し、内側の羽根はインナーもしくはセンターギアにかかったチェーンを内側から押すからで、ギアの径が違うために形状は非対称であるのがむしろ当然だからだ。

しかし、機能的にそのほうが合理であるからといって、スタイリング的にもそれが正解だとは言い切れない面があることは説明不要であろう。ステルス戦闘機に、スピットファイアの流麗な主翼のシルエットを求めても無理であるのと同じである。
旧い部品というのは、単なる懐古趣味でも、ローテクの博物館でもなく、その時代における人間の思考形態の結晶とも言え、さまざまな要素が絡み合って、結果的に唯一無二のものが誕生したりする。
もちろん、カンパニョーロ・レコードのFD(1052)を解剖学的に分析して、この部分の意匠は歴史的に見てどこそこの聖堂や聖像に見られるあれこれと同じ、というような解釈をすることも可能であろうが、それが必ずしも全体の統合的な理解を深める方向に発展するとは限らぬ。
むしろ、凝視すればするほど、謎が増えるのかもしれない。そのデザイン言語の解析が困難もしくは不可能であるとすれば、それは文学における詩の領域に達していると言えよう。

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白鳥和也/自転車文学研究室
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