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さよなら青春18きっぷ
青春18きっぷの使い勝手がずいぶんと変わり、使いにくくなるらしい。これまでのようにグループで使うこともできなくなれば、日を置いて使うこともできなくなるらしい。
JRはおそらくもうこのスタイルのきっぷを売りたくないんだろうね。ため息が出るが、寡占の私企業なのでどうしようもない。輪行に対する方針などを見ても、庶民のことを考える企業ではないようだ。
しかし以前はそこまでではなかった。夜行列車や長距離の各駅停車列車がかつての時刻表にはいっぱい載っていて、昔はずいぶんと面白い旅ができたのだ。
私が青春18きっぷを使って長距離の輪行旅に出たのは、5回ほどある。最初はランドナーを再生したばかりの1993年。次はその翌年。それからしばらく間があいて、2001年。その次は2009年。
時節は多くが9月の最初の週だ。夏休みが終わって宿泊施設も混んでおらず、青春18きっぷはまだ使える。そんなタイミングで旅に出るのが好きだった。
1993年は、静岡駅から夜行の東京行きに乗り、東京駅で山手線始発に乗リ換えて上野に行くと、東北本線の始発鈍行が待っていた。記憶が正しければ、0517発だった。それから黒磯、福島などを経由して何度か乗り換えると、仙台からは昔の電車寝台を改造した電車で一関まで乗った。
一関から先は、電車ではなく、ED75電気機関車が50系客車を引っ張る列車で、これにはずいぶんと感激したものだ。ただし50系客車は冷房がなくて暑かったことを記憶している。
盛岡に着いたのは1500を回った頃。さすがにけっこう疲れていて、その晩はビジネスホテルでよく眠った。そして翌朝から自転車で走り始め、雨上がりの盛岡市内を抜けて南下し、二日かけて仙台まで下った。帰路は常磐線に乗ったのであった。
1994年4月には、群馬県の前橋から千葉県の銚子まで走ったのだが、このときも電車往路の全部と、電車復路の一部に青春18きっぷを使った。移動距離はそれほどでもなかったので、夜行は使わず、午前中に静岡を出発して夕方には前橋のビジネスホテに着いた。東海道線、相模線、横浜線、八高線、高崎線などを経由した。実は相模線で気動車に乗ることを愉しみにしていたのであるが、時刻表の列車記号が変化していることに気付かず、現地に行って、すでに電化されていたことを知ったのであった。このときはいささかガックリした。
自転車での旅の部分は、前橋→足利→岩瀬(茨城/泊)→涸沼→鹿嶋→銚子(泊)てな具合であった。帰路は銚子電鉄の終着駅から輪行し、総武本線で都心に戻り、急行東海で静岡に帰った。
1994年9月の東北旅行も、盛岡までは前年とまったく同じタイムテーブルで動いた。ただし、大垣発東京行きが少し遅れ気味で、輪行袋抱えて東京駅で山手線始発に乗り換えるのにはいくらか神経を使った。山手線始発は待っていてくれたようだった。
このときも青春18きっぷの最長不倒距離は静岡→盛岡だった。実は青森まで行ったのだが、そして時刻表の上ではその日のうちに青森までは余裕で行けるはずであったのだが、前年と同じく盛岡でくたびれてしまい、盛岡から先の東北本線は特急はつかりに乗ってしまったのであった。
しかしこの「はつかり」の旅は良かった。北緯40度線を超えるあたりから植生が変わるのがはっきりと分かったし、野辺地駅ではまだ当時運行されていた南部縦貫鉄道のレールバスを見ることができたのだ。夏泊半島の辺りではもうガラガラになった車内に夕刻の光が差し込んで来、本州の果てにこれから行くのだという気分をいやがうえにも盛り立ててくれた。
そして翌朝青森駅近くのビジネスホテルを出発した私は、それから5日かけて津軽半島と五能線沿いの海街、秋田の能代と鷹巣、田沢湖、角館などを自転車で回ったのであった。
2001年は、北陸へ向かった。静岡駅から例の夜行大垣行に乗り、米原からは北陸本線に回り、目的地の高岡駅に着いたのは16時頃だったように思う。でもこの鉄道の旅にはまだ先があって、高岡駅前から路面電車の「万葉線」に乗ったのであった。そして終点の「越ノ潟駅」に辿り着き、ここで自転車を組んで、富山港を渡る県営無料フェリーに乗った。
そしてその日は富山市内の親戚のアパートに泊めてもらい、翌日から走って、新湊、城端(じょうはな)、金沢、加賀などを巡った。帰路は米原から新幹線であった。
最後に青春18きっぷを使った旅は、2009年。夜行大垣行には乗らず(その頃はもう廃止されていたのかもしれない)、朝の出発で一路西を目指し、京都まで東海道線で到達し、そこで山陰本線に乗り換えた。東海道線ホームから山陰線ホームまではけっこうな距離があり、ここで輪行袋を引っ張ってゆくのはなかなかの苦行であった。
山陰本線は京都市内ではそこそこ混んでいたけれど、郊外に向かうにつれ、ガラガラとなり、その頃合いを見計らって、京都駅構内で買った柿の葉寿司を食べた。旨かった。目的地の綾部には15時過ぎ頃に着き、待っていてくれた自転車仲間のTさんとともに舞鶴港まで自転車で往復し、その日は綾部駅前に泊った。
翌日はもう帰路で、輪行袋とともに舞鶴線に乗り、舞鶴から先は小浜線に乗り換え。この旅は自転車よりも電車に乗っている時間のほうが長かった。そして敦賀からは北陸本線に入り、米原で東海道線に復帰。静岡市内に着いたのは19時頃だった。
ま、そんな具合である。輪行しながらも、けっこう鉄道の旅を愉しんでいたことが今になると分かる。
JRはそういう庶民の旅や若者の旅はもう不要だと思っているのだろうね。豪華列車の企画などを見ていると、貧乏人10人を相手にするよりも、金持ち1人に揉み手をしていたほうがいいと考えているらしい。
若者が旅をする国は未来へと発展途上にある国と言われることがある。成熟して腐敗が始まった国には、旅をする若者や庶民は不要なのかもしれない。リニアなんぞにかけるカネはあっても、将来の旅人を増やすことには興味はないらしい。
この国はどこへ向かおうとしているのかね。鉄道にもその答えが隠されているのかもしれない。
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