旅と境界を超えること
旅は世間にとってわかりやすい「旅」であるとは限らない。
旅が既定の常識的な世界からある境界を超えてその外側(ないし内側)に広がる時空に出発することだとすれば、旅は外的な移動などの行動とは別のところでも成立し得る。
文学や絵画や演劇などの芸術もそのように、本来は境界を超えた世界を表現しようとしているはずだが、俗世間というものは境界の向こう側の世界、あるいは境界そのものを認めようとしないので、こちら側の世界のある高められた部分という風に受け取られることが少なくない。
毒にも薬にもならない作品は、そういうニーズと合致している。
教養というものの勘違いと同じである。
世界について知れば知るほど、その深層に降りてゆけばゆくほど、元々いた場所に帰ることは難しくなる。
良家の子女にふさわしいとされる教養など、実際にはほとんど上澄みにしか過ぎない。
教養は実際には恐るべきものなのであって、ここに辿り着いたものは二つの道の選択しかないように思われる。
ひとつは、革命家になることである。
もうひとつは、革命家が倒そうとする専制支配者になることだ。
ルーク・スカイウォーカーになるか、ダース・ヴェイダーになるかは、スペースオペラの中での話ではなく、究極的にはすべての人間につきつけられた問いである。
あれは、かたちを変えた教養小説なのだ。一人の人間がどのようにして完成してゆくか、どのようにして崩壊してゆくかが描かれている。
そういう旅をしたくないのなら、高額な旅費を払って豪華なクルーズ船ツアーや、至れり尽くせりのガイド付サイクリングツアーに出かけるのがよかろう。それなら、自己を見失うことも壊すこともない。
そうでなければ、境界の向こうへ出かける旅をしたいなら、すべて自分で計画し、自分で創造し、自分で責任を持つ旅をすればいい。
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