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小説にしてみると違うこと

 根本的に同じ体験やイメージから成っている素材を、小説にするかエッセイにするかで、どう違ってくるのだろうか。

  違いは明らかに存在する、と思う。特に三人称小説の場合。一人称小説では、小説とエッセイとの線引きは確かに微妙になるが、それでもやはり、差異は生じる。

  このところ投稿した何本かの掌編小説は、多くが自分の経験に基づくものなのだけれど、書いてみると、不思議なことに記憶そのものも一部変容してしまったかのような実感がある。

 時間とか、世界の位相とかが、逆流、または反転した感じなのだ。

 特に三人称で書くと、体験全体の記憶に新しいレイヤーが加わったような感覚になる。

 記憶というものはふつう主観的であるから、記憶している人格の視線がカメラアイとなっている。自分の記憶に中に、通常は自分自身の姿は存在しない。

 ところが、三人称でその体験を小説化すると、いつのまにか視線は自身の外側に移動し、自分とその行為の記憶を第三者的なところから見るようになる。そのように書き換えられてしまうのである。

 かくして、防火用水池で釣りをしていた少年は客体化され、私自身は自分の記憶の外側からその記憶を再編成したような気分になった。記憶というのは多くの場合不可逆的で、更新が困難なものであるにもかかわらず。

 小説というものは不思議だ。何十年にもわたって閉ざされていた氷結が融解して、新しい層が見えてくるようでもあるし、その層の上に別のものが投影されたようでもある。 

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白鳥和也/自転車文学研究室
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