野外で食べることは
野外で食べるとなんでこんなにメシが旨いのか、と不思議に思う。
キャンプのように外で調理すればそこで作り立てのものが食べられるので旨いのに決まっているが、ピクニックやチェアリングのようにあらかじめ作っておいたものをそこで食べるだけでも、実に旨い。
どうもそれはDNAの中に太古の人類の歴史が刷り込まれているからではないだろうかという気がしないでもない。薪が燃える匂いを嗅ぐと、何か根源的な喜びに火がつく感じとよく似ている。
だから人はたとえカップラーメンでも外で食べると旨いと言うし、もちろん私も実際そう思う。
食べるということは、究極的にはこの星の恵みを体に取り入れることでもある。パンでも飯でも肉でも魚でも野菜でもそれは同じだ。
外で食すということはだから一種の祭礼でもあるような気がしないでもない。われわれは別の生命を食べなければ命をつなぐことができない。われわれの生活は、ほかの生命の犠牲の上に成り立っているので、食べるということにも宗教的な意味合いが実際には内包されている。だから「食前の祈り」のようなものを人は必要としたのであろう。
さて、野外にいるということは、当たり前だが野外に立っているということである。座っていても同じだ。われわれの足は野を踏みしめてそこにある。
これは、回路として考えれば、われわれ人間の体が一種のアースのように地面に接続されているということにならないだろうか。
外にいるということは、この大地、この星とより親密につながっているということなのだ。
そこで何かを食すということは、この大地、この星の恵みをあるべき場所に帰すことの発端を作っているということなのではなかろうか。
つまり、野外で何かを食べるということは、人間がこの星の生命の流れに参加しているということの象徴でもある。それは儀式なのかもしれないし、あるいはもっと神秘的な意味合いを持つ何かなのかもしれない。
どういう仕組みなのかはわからないが、このことによって、野外での食事は特別なものに感じられるのではないかと思えてならないのである。