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時計の記憶

暮れにクオーツ時計の電池交換をしてもらった。画像の時計である。アルバ製だ。2004年頃に5000円くらいで買った時計で、もう10回くらい電池交換しているのかもしれない。

自分としては一番長く使っている腕時計で、どこにも自慢できるような要素はないが、壊れないので愛用している。

考えてみれば18年くらい使っているのだからそろそろ変えてもいい頃なのだが、問題なく動いているのでそういう気にならないのだ。変えるとしたら、同様のデザインでクロノグラフが付いているモデルだろう。

18年という長さを時間で示すと(うるう年は無視)、122640時間ぐらいになるから、けっこうな長さである。そのあいだ、大きなトラブルがひとつもなかったということは5000円の時計としては褒められて良いだろう。

自転車や旧い車などの機械ものの愛好者の中には、手巻きや自動巻きの機械式時計の愛好者も少なくない。しかし私にはどうもその趣味はないらしく、その昔先輩にもらった高級な自動巻きクロノグラフもいつの間にかどこかへやってしまい、いまだに後ろめたい思いをしているのだ。まことに、申し訳ない。人生において悔やんでいることのひとつだ。

私の腕時計の使い方は、仕事中は外してデスクの上部に掛けるようにしているので、実際には電池駆動のクオーツでないとよろしくない。腕時計を身に付けるのは外出するときだけである。

時間はどう使うかに興味があるのであって、時間そのものを扱う時計には強い興味がはないと訳知り顔で言うこともできるが、どうもそれもペダンティックだなあと思うようになった。

クオーツ時計は例えば本人が逝去したときも電池がある限りは動き続ける。しかし手巻きや自動巻きの時計はすぐに止まってしまうだろう。その意味では、手巻きや自動巻きの時計のほうが人間味がある。

近代文明の中核を成す「機械」の基本は回転運動にあるので、それを体現している機械式時計の魅力が消えることがないのはもっともなのである。私にもそういう時計に凝るような甲斐性があればいいのであるが、実際には5000円の時計を20年近く使い続けるというのが関の山なのだ。

価値のあるものは価値をよりよく理解する人の元へ行くのかもしれない。私はいまでも、あのセイコー・スピードマスターがどこかで秒を刻んでいることを望んでもいるのだ。

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