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さようなら、エンスー車
面白味のある車が好きだった。たいがいは旧い車で、昭和の匂いの色濃く残る国産車だったが、一部の外国車にも憧れた。
今はその種の車には乗っていない。旅の道具としての旧いキャンピングカー(バンコン)と、日常生活の道具たる軽四が自分の車だ。
それでも、比較的最近まで、もし万が一宝くじにでも当たるように一獲千金の幸運にでも巡り合えば、イギリス製のライトウエイトスポーツを入手したいというような妄想もなかったわけではない。
それがとうとう壊れた。そういう思いが胡散してしまった。
最近、どこかの街角で自分は、オレンジ色のロータス・エリーゼが交差点を曲がってくるのを見た。
ロータス・エリーゼとくれば、ライトウエイトで、ミッドシップ2シーターで、4気筒1600ぐらいでという理想的なスペックである。しかも旧びていない。愛好者が多いので、パーツの供給にも無理はないだろう。
以前はそんな風に考えていた。しかしそのときの自分はそうではなかった。
角を曲がり、ステアリングを戻して対向車線を走り抜けてゆくエリーゼを見て、愕然としてしまったのだ。
自分にはああいう素晴らしい車を持つだけの財力も幸運もなかったわけだが、そもそもそれは自分にとって必要なものではなかった、という考えが不意に降りてきた。
そのことに自分は驚いた。あれだけ以前には「いいなあ」と思っていた対象物が不意に色褪せてしまったのだ。自分でも衝撃的だった。
たとえロータス・エリーゼを所有して好きなように運転できる機会に恵まれたとしても、それは、だんだんと残り少なくなってゆく自分の生の時間を通しての課題である何かの解決にはならないのだ。
エリーゼに乗ることができたとしても、私が直面している人生の最も大きな問題━━人生の諸問題と向かい合う小説が描けるかどうか━━には、なんらの回答にも助けにもならないのだった。むしろそこから遠ざけられるような気がした。
かくして、エンスージャスティックな車に乗りたいという50年以上の思いはほぼ消滅してしまったということに自分は気づいた。それはどちらかと言えば、すっきりしたというより、何かに挫折してしまったような気分に近いとも言えるが、どこかに救いのある気分でもあった。
自分はもうああいう車を見ても心をかき乱されることはないだろう、と思った。それが良いことかどうかは分からないが、そういう風に変化したのは確かなことだった。
自分が心のどこかで追い求めてきたものは、結局のところ、自分にとって必要不可欠なものではなかった。エンスーな車を持っても、小説の書き方が分かるわけじゃない。それとこれとは関係がないのだ。
齢をとると考え方が凝り固まると言われるのはよく分かるし、実際にはそういう例も多いのだろうが、そうでないこともある。根拠の不確かな嗜好や願望は、いつかは崩壊するのだ。
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