遠い巨像(掌編小説)
雨雲が低く垂れこめて、どこまでが雲かどこからが雨の幕か分からないようなとき、港の対岸にある造船所のクレーンは、晴れた日よりもむしろ大きく見える。どうかすると上のほうは霞んでいて、運転室のある辺りまで輪郭が判然としないことがある。
最近まで10階建てを超えるような高いビルなど存在していなかった臨港地区で、目立つ構造物と言えば、造船所のクレーンぐらいのものだったが、造船が錆びついた産業のリストに加わってからは大手の工場も撤退し、クレーンの数は半減した。
以前、横浜や神戸のような客船や観光の匂いが微塵もなかったこの港は、重油や輸入木材の貯木場からの匂いが一種の工業的プレゼンスを成していた。それも、重厚長大産業の衰退とともに希薄になって、埠頭に並んだ旧い倉庫の群れは更新されないまま、書割のような体裁で残った。
税関や水上警察のある港湾中心地区から対岸の半島部まで伸びていた鉄道線も、そこから枝分かれした工場や港湾施設用の専用線とともに、バブル経済が都市の風景を塗り替える前に廃線になって取り払われてしまった。
ごく一部の寡占的物流企業を除けば、この港の新しい産業的成功の見込みはなかったので、近頃は、自治体は必至になってクルーズ船誘致の旗を振り、なるほど確かに数万トンクラスの客船が毎月のように入港するようになったが、その船容は昔の豪華客船とはだいぶ異なり、バブル期に乱立したリゾートマンションを無理やり船に仕立てたような風情を呈している。
ざっと半世紀あまり、自分は港のそういう変貌を見てきた。港内を横断する連絡船に工場労働者が喫水を変えるほど乗り込んでいた時代は過去のものになり、工業港の面目も失われ、経済の流れの中での一経過点に過ぎなくなった。しかしだからと言って、それが寂しいというほどの気持ちにもなれない。
故郷というのは家族に似て、愛憎のどちらにも振り切れることのないバランスシートのようなものだった。それがわかるまで、私もそれなりの時間を要したのだった。
*
いまにも氷雨が降り出しそうな真冬のある週末、妻と車で買い物に出た帰り、私たちは通りの向こうに見慣れないシルエットが浮かんでいるのに気付いた。港の複合型商業施設のビルの上に、もっと高いビルが聳えていた。じきにそれがクルーズ船のアッパーデッキだということがわかった。
一瞥したぐらいでは、それが船の一部であることはわかりにくい。昔の豪華客船とは違って、容積最優先で設計されているし、眺望のためにやたらと窓が大きいので、側面だけ見ると船のようには見えないのだった。
「でかいな。10万総トンぐらいあるのかもしれない。だとすりゃ、客も2000人以上乗れるだろう」と信号待ちで私は言った。巨大さに半ば呆れていた。
「近くで見ることができる?」と妻が言った。
「どうせ埠頭は立ち入り規制をしてるだろうけど、手前までは行けるだろうな」
「行ってみない?」
「いいよ、別に急ぐ用事もないし、少し混んでるかもしれないけどな」と私は答えた。
予想に反して、客船埠頭の周辺ではさして車も多くはなかった。大きなクルーズ船の入港もこれが初めてというわけでもないし、帆船や自衛艦のように艦船マニアが集まってくるわけでもない。数年も経てば人々はうすらでかいクルーズ船にも慣れるのだ。バブルの頃に、クイーン・エリザベスⅡ世号が寄港したときとはわけが違う。
「定員2700人なんだって。船の大きさは──」と、早速スマホで調べていた妻が教えてくれた。
「2000人以上と一緒に旅行するっていったいどういう気分なんだろうな」
「余裕があれば乗ってみたい?」
即座に私は答えた、「ごめんだよ。社員旅行のバスがやたらでかくなったのと大して変わらないじゃないか。それで、『ファーストクラス』以外の方はこの先立ち入りをご遠慮ください、なんて書いてあるんだろう、たぶん」
「でも新潟から小樽まで乗ったフェリーは良かったわね。バスルームも付いてたし」
「今じゃあの航路ももう廃止だよ。ふつうの船旅は廃れる一方さ」
「どういう人たちが乗っているのか見てみたかったの」と彼女は言った。それらしきグループが市内への送迎バスやタクシーに乗り込むところを見ていると、たいがいはふつうのアジア人か日本人で、非常に裕福そうに見えるような人々はあまり見当たらなかった。革製の大きな船旅用衣料チェストを客室に持ち込むようなやり方も、もう過去のものなのかもしれない。
インバウンド系というべきなのか、新しいクルーズ船需要を目の当たりにしていささか辟易した私は妻に提案した。
「口直し、というわけでもないけど、F埠頭のほうも覗いてみよう。あっちはもっと静かだからさ」
F埠頭には客船が接岸するようなところはなく、穀物か木材チップの貨物船が荷役のために停泊するだけだった。穀物岸壁のほうは今日は船の姿はなかった。岸壁まで車を入れられないのは客船埠頭と同じだったが、低層の倉庫と南側にサイロがあるだけなので、倉庫の切れ目に車を寄せると対岸がよく望めた。
夕闇が迫っていた。対岸では、K造船のクレーンが2機、セントエルモの火のように航空標識灯を灯していた。私には、それは、リゾートマンションだか船だかわからないような新造船よりもよほどまともな港湾の風景らしく感じられた。
「何度も言ったと思うけど」と私は言った、「親父はあのクレーンのどっちかに乗っていた時期があったんだ」
「ええ、聞いたわ、何度か。お義父さん、高いところでも平気だったのね」
亡父は元造船工で、溶接が本業のはずだったが、ある時期はクレーンのオペレーターもやったことがあるらしい。父の本棚で「起重機の要諦」というようなことが背表紙に書かれた本を見たような記憶がある。
文系肌で、とりたててスポーツもやらなかった私は、いかにも港町の男らしい職業人だった父とは折り合いが悪かった。数年前に亡くなる最期まで、そうだった。父は若い頃は冬山に上るようなこともやり、また、盆栽を種から育てるために、クロマツの高い梢までロッククライミングのように登って、開く前の松ぼっくりを取ってくるようなことをしていたが、私はそういうことにはまるで関心がなかった。
「さっきのダイヤモンドなんとかというクルーズ船は、全長200mぐらいあるんだっけ」と私は妻に聞いた。
「そんな風に書いてあったわよ、確か」
「つまり──シン・ゴジラくらいあるんだろうな、尻尾も入れりゃ」
それじゃ、あのクレーンは、どういう怪獣が似つかわしいんだろう、とふと考えて、それから絶句した。何年も、いや何十年も、造船場のクレーンを見るたびに、自分の無力さと相手の強大さに畏怖して、ときに憎悪したことの理由がわかったような気がした。
「あれは親父だったのかもしれない」と私は言った。よくよく考えれば、私はもう、父がクレーンを動かしていた頃の年齢を越えていた。
「え? どういうこと?」と妻が聞いた。
私は話した。彼女は私の話を聞いてくれた。そのうちに冬の雨の小さな飛沫がフロントガラスに落ちてきて、背後のクレーンの標識灯が揺らめいた。
(了)
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