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散りゆく桜に思う
静岡市では桜が散り始めている。満開の時は過ぎた。
当たり前の話だが、桜が咲いているのは年に10日か2週間程度に過ぎない。
それ以外のときは、葉桜か冬枯れの状態だ。
その対比があまりにも鮮明なので、桜は尊ばれ、また惜しまれるのであろう。
美しいものは、また愛(かな)しい。
やがては過ぎ行くものであることを皆知っているからである。
友を亡くしたこの春に桜を見上げるのは哀しかった。
われわれは時間の国の中を生きている。
5次元以上の多次元的世界の中では、時間というものは存在しないらしい。
そこでは桜は永遠に咲き続けるのであろうが、この3次元の中ではそうはいかない。
桜の美しさ自体が、その中に死を孕んでいる。
だから西行や梶井基次郎が書いたような感興が生まれるのであろう。
齢をとって分かったことがひとつある。
桜は美しいものから、愛(かな)しいものに変化してゆくのだ。
桜は私たちを置いて去る。
しかし私たちが春を思うとき、そこには常に桜が咲いているのである。
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