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雨
タランバンは雨の多い街だった。
九月、ぼくはフィリピンのセブ島にあるその街で、一ヶ月間の短期留学をしていた。セブといえばのリゾートの雰囲気などかけらもないその街には、いくつも英語学校があって、その街ではどこでも、夕方になると決まって土砂降りのスコールが降った。
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ぼくはその学校に、本当であれば3年前に来ているはずだった。しかし、コロナによってその学校は休校となり、エージェントの取り計らいで、ぼくの留学の予定は、そのまま3年後の夏に移されることになった。しかし、3年前には英語をなんとか習得しようと息巻いていた自分も、大学生になり、最早手遅れだという諦観がすっかり身に馴染んでからは、英語への意欲というものは、まるで消え失せてしまっていた。
セブへの観光のついで程度の気持ちで来ているぼくにとって、朝8時から夕方6時まで続くスパルタ式の授業は、とてもではないが追いつけるものではなかった。一週間もするとぼくは午前中の授業では寝るか、校内に備え付けのビリヤードをするかでサボるようになり、午後のマンツーマンレッスンの時間になると、教科書すら持たずに先生と雑談をするようになった。
セブ島に数多ある英語学校ではどこも、現地の比較的高学歴の若い女性が教師を務めるのが一般的だった。ぼくの通った学校も例外ではなく、科目によって分けられるぼくの4人の担当の先生は、いずれも女性だった。ぼくはその中でも、ベスという女性と親しく話をするようになった。生徒がスパルタ式で忙しいのであれば先生はもっとスパルタ式で忙しく、1日に10コマの授業をこなす彼女にとって、話しているだけで終わるぼくとの時間は、いくぶん気の休まるものらしかった。
彼女はぼくの質問になんでも答えてくれた。一日はどんな感じか、この仕事は好きか、給料はいくらか、将来はどうなりたいか、ドゥテルテは好きか、フィリピンで流行っているYouTuberは誰か。中には、政治の話など、校則で禁止された会話もあった。彼女が打ち明けてくれた、長大な労働時間の中で、日本の基準では信じられないくらいの低賃金で働く彼女らの労働環境には、同情するのも烏滸がましいようなえも言われぬ感情を抱いた。それでまだ高学歴のホワイトカラーなのだから、格差とは残酷なものだ。ぼくは日本に生まれるという幸運に恵まれながら、異国で無意味な1ヶ月を過ごしている自分を、恨まずにはいられなかった。
彼女には夢があるらしかった。この仕事でお金を貯め、オーストラリアやカナダなどの先進国に渡って働く。それは彼女ら英語に長けるフィリピン人女性の、ある種のエリートコースのようなものらしかった。ぼくが彼女らの境遇に呑気な感想を抱いているうちに、彼女は自身の人生を前進させるためにもがいていたのだ。香港でも日本でも、先進国だったらどこでもいいと嘯く彼女を前に、” I encourage you “などと有り合わせの語彙で応援の言葉を口にしながら、ぼくは彼女の行末を静かに案じていた。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。ふと気付いたら、ベスは泣いていた。ぼくは驚くことしかできなかった。彼女はsorry, sorryと何度も言いながら、ティッシュで涙を拭い、部屋を退出するようぼくに促した。それが彼女と話した最後だった。
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それはぼくの留学最終日の前日で、次の日、彼女は風邪を理由に授業を休んだ。それ以来、ぼくらが連絡を取ることはなかった。
その日も夕方になるとスコールが降って、次の日もスコールが降った。それでぼくは日本に帰った。