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不平不満を消すほどの情熱を持つ。

世の中には、いろんな場がありますよね。例えば会社や家庭も一つの場と言えますし、何かサークルに入っているのであれば、サークルもそうでしょう。スポーツをしていれば、そのチームも一つの場と言えるのではないでしょうか。

人は生きている限り、必ず何らかの場に存在し、必ずその場の周囲には人が存在するのです。

そんな他社と交わる場において、人間関係もそれなりに構築された場であるにも関わらず、不平不満ばかり言う人がいます。生きていれば不満の一つも生まれるのは当然のことです。

しかし、良い大人が公共の場で、大きな声で不平不満を放ち、他者を批判するようなことは正しいのでしょうか?自分の意見があたかも全員の総意のように話し、あたかもそれが正論かの如く声に出すのです。

とこういうことを書いている僕自身も、こうした行動に不満を持ったので書いているのですが、正直な感想・・・何も生みませんね。何の生産性もない行為をなぜ人はするのか?不思議で仕方がありません。他人があたかも間違っていて、自分自身の意見こそが正しいのだという利己の塊にうんざりするのですが、同様にその人を避けて、また始まった・・・と不快に感じる人も周囲にはたくさんいるのです。しかし当の本人はそれに気づかないのです。回りまわって、そういう声が周囲では回っているのに、本人とその人の周りに群がる人だけには届かないんです。

その届かない声に気付かず、周りは自分の意見を正論と言っているとまた饒舌に言葉を並べ、自分自身を更に大きく見せたいのです・・・虚栄心というやつなのでしょうか?

そのような行動に、何の価値もありませんし、何も得られるものもないと思うのです。しかし、その言葉が正論だと信じてしまう人も少なからず居て・・・たった一人の言葉が、小さなコミュニティの中では全てに変わってしまうんですよね。不思議な現象です。それに流される人の器の小ささにも驚くのですが、やはり、流される人は同じような人間性を持っているのが垣間見えるのです。

僕が尊敬する稲盛和夫氏は、不平不満など言う暇がないくらい、目の前のことに没頭しなさい、と教えてくださいました。確かにそうなのです。そんなことを考える暇がないくらい、目の前のこと、自分がすべきことに没頭するのが正解なのです。それくらいの情熱が無いと何も達成など出来ないのです。ただ、ふと時間が空いて一息をついて、心にぽっと隙間が出来た時に、その不満の種になる話が頭をよぎり、それに対して、またいろいろと考えてしまうのです。

僕は冷静になるために、こうしてNOTEに書いて、読み返すことがあります。そうする事で、自分自身を振り返り、自分自身は反省すべき点は無かったのか?と改めて考えられるからです。そうした自分自身の振り返りも大切なのですが、もっと大切なことは、稲盛氏がおっしゃったように、そんなことも考える余裕が生まれないほど、没頭すること!情熱を燃やして目の前の与えられた使命に尽くすことだと思います。

しかし、現実問題・・・なかなか不平不満を忘れるほどの情熱を持つことは難しいと思うのですが、言い換えれば、他のことを考えるくらいの余裕がまだまだあると言うことです。そんな余裕がないほどに、没頭することで少しでも前に進んでいくでしょうし、気が付けば、悩んでいたこと自体が小さなことだったな、と感じるのかもしれません。

また不平不満を持つことは、原因を外に造っているということです。要は言い訳をしているのだと思います。自分の中に原因があると考えている人間は、自分に対して不満など言いません。もくもくと自分自身の過ちを律する努力を重ねるはずです。つまり、こういう記事を書いている僕自身も外に原因があると思っているから書いてしまっているのだなと新ためて気づきました。まずは変えるべきは自分ですね。

結論から言うと、不平不満が生み出すものなど何もないな、ということです。要は不平不満など言ってること自体が時間の無駄であることに、こうしてNOTEを書いていると気付かされました。そして、もっと情熱をもって仕事や自分が与えられた場に感謝の想いをもって、それを全うすることの大切さを改めて感じました!さぁ、切り替えて仕事に励もう!

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