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中学生の僕は"教授"を通していろいろなものを知った
それはいつかは起きてしまうことだろうとは思っていたけれど、実際に起こってしまうと、なかなか信じがたいことだと思ってしまう自分がいる。
坂本龍一さんの名前を最初に聞いたのは、たぶん小学校高学年の頃だ。
ピアノの先生のご子息が坂本龍一さんの音楽が好きで、ご自身も作曲を始めた、というような話を、先生か、自分の母親経由で聞いたのだったと思う。当時、母もまた自分と同じ先生にピアノを習っていたのだった。しかし、考えてみたら、僕は高学年のときに一度レッスンをやめてしまったのだった。ということは、おそらくその話は母から聞いた可能性が高い。
自分の育った家は、土曜日の夜八時、仕事から帰ってきた父にチャンネル権があり「暴れん坊将軍」を見る家だったので、ドリフやひょうきん族は、父の帰りが遅いときに限られていた。だから、YMOがひょうきん族に出ていたことも当時は知らなかった。
歌番組は、小学五年のときに、同級生がトムキャットのファンということで見始めたのだが、その頃YMOは既に解散(散開)していたので、出演しているところもリアルタイムで見ることはなく、坂本龍一という名前も知らなかったのである(もっともひょうきん族に関しては、YMOの出演は僕が小学校一年、あるいは二年くらいだったと思うので、既に寝ていた可能性はあるけれど)。
YMOに関しては、小学校低学年のときに同級生が、たぶん「テクノポリス」だったと思うが、そのレコードを聴かせてくれて、これはロボットが作ってるんだ、というようなことをその同級生が言うので、へえ、と思った記憶がある。「TOKIO」というボコーダーを通した声を聴き、本当にロボットが作っているのかもしれないと当時の自分は思ったのかもしれないが(スターウォーズのC-3POのような風貌のロボットが作曲しているところを想像)、そのことはすぐに頭から離れたのだと思う。なぜなら当時の自分の興味の対象はファースト・ガンダムだったからだ。
その後、進学した中学校には、いわゆる部活とは別に、授業内にクラブ活動というものがあり、僕は作曲クラブに入ったのだった。当時、歌番組を席巻していたのはEPICソニー系のアーティスト(まだ音楽家のことをアーティストとは言っていなかったように思う。そう呼ばれるようになったのは、その数年後ぐらいではないだろうか)で、自分も良く聴いていた。一番良く聴いていたのはTM NETWORKで、その他、小室さんが手がけていた劇版などの、歌のないインストも良く聴いていた。作曲とシンセサイザーに興味を持ったのは、その辺りの影響だ。
作曲クラブの先生は当時の自分のクラスの担任で、音楽の先生だった。そこで再び坂本龍一さんの名前を聞くこととなる。そのときに"教授"という、幸宏さんがつけたニックネームを知ったのだと思う。その先生を通じては、後にキース・エマーソン、キース・ジャレット、チック・コリア、パット・メセニー、ライル・メイズ、萩尾望都を知ることとなる。
そんなこんなで、レンタルCDでYMOのベストセレクションなどを借りて聴いたが、そのときは前述のEPIC系のアーティストが自分の心を占めていた。ただ、段々とその占めている割合も変わっていくのだが。
当時、レンタル屋に行くと坂本龍一さんのビデオがあるのが気になっていた。タイトルは『MEDIA BAHN LIVE』。その同じ時期に、年末のテレビ放送で山下洋輔さんとのセッションの他、東洋風なメロディが印象的なピアノ曲を初めて聴いたのだった。昔はスマートフォンで検索などもできないから、タイトルもよくわからなかった。自分に兄や姉でもいたら、あるいはもうちょっといろいろな情報が入ってきたのかもしれないが、そうではなかった。もしかしたら、あの曲もビデオに入っているかもしれない、と思い、ある日『MEDIA BAHN LIVE』のビデオを借りたのだった。
そのコンサートの始まりは、SE的に楽曲が流れた後、ドラムのビートから始まり、短髪の教授が出てきたかと思うと汗をかいて踊りながら演奏するというものだった。その光景は、EPICのアーティストぐらいしか知らない自分には完全に異世界のものに映った。後から知ったが、YMOのライブを知っている人たちからも、このコンサートに戸惑った人たちも割りに多かったらしい。コンサートのテーマの一つが人間による演奏だったことから考えても、それまでのテクノ・ポップのイメージとは真逆のことをやろうという感じだったのかもしれない。
自分の知っているシンセサイザーもそのコンサートでは使われていたが自分が知っているサウンドとは雰囲気が違った。ボーカルやコーラスも外国のミュージシャンたちで構成されていた。何曲かバンドの演奏が続いて、このままこの感じなのかな、と思っていたら、途中からピアノ・ソロが始まり、そこでサティの「ジムノペディ」を教授が弾き始めた。続けて「ゴリラがバナナをくれる日」「Dear Liz」と続き、自分はその演奏とサウンドに惹きつけられた。そしてその後、自分が探している曲を教授が演奏し始めた。その曲が「Merry Christmas Mr. Lawrence」というタイトルだということを、ようやく知ったのだった。
そのビデオを見る前か後だったか、生まれて初めて、リットーミュージックの「キーボード・マガジン」を買ったのだが(表紙は小室哲哉さん)、ビデオを見た後に教授の楽譜が売っていることがわかり、その楽譜を買ったのだった。自分から楽譜を買ったのはおそらくそれが初めてだったと思う。『MEDIA BAHN LIVE』からの楽曲が多かったことに自分は喜んで、レッスンをやめて以来触っていなかった自宅のアップライト・ピアノを弾いた。その頃はそれらの曲を弾くことが楽しくて楽しくてしょうがなかったのだと、今こうやって書きながら思い出す。本当に楽しかった。それまで知らなかった世界を知って、その世界を知りたいと思って近づいていって、それらを少しでも知ったように思えるその瞬間、自分は音楽家になりたいと思ったのかもしれない。
教授が様々な分野の人たちと交流があることを本を読んで知り、自分もそういった人たちに興味を持った。他のアートのことや、映画、学問など。文化人類学というものがあるということは、坂本龍一さんを知らなければ知らなかっただろうし、知ったとしても、大分後だっただろう。また、教授が音楽監督をしていたことが「オネアミスの翼」を見るきっかけになったのだった。
そういえば、ついこの間まで携わっていた仕事の打ち合わせで、あるきっかけで、そこにいらっしゃった方々のほとんどが坂本龍一さんの最後のライブを見ていたことがわかった。その方々が皆、坂本さんとお仕事をしたということがそこでの会話からわかったのだが、それにしても業界の中心にいらっしゃる方々が皆関心を持っていたことに驚くと同時に、深く納得もしたのだった。
僕が中学や高校に通っていた頃、教授の音楽を聴いている人はほとんど周りにいなかったので、自分で情報収集しなければならなかったが、どうやってやったらいいのかよくわからなかった。本屋の大型店が近所にあるわけでもなかった。たまたま友達がギターやベースを買いに行くのに付き合って行った御茶ノ水で三省堂書店に立ち寄ったところ、WAVE出版の「メタフィクション」と「グレン・グールド」を見つけた。「メタフィクション」は教授と他の方との対談が載っていたので買った。バロウズなんてそれまで全く知らなかったのだが、それで知ったのだった。グールドは、浅田彰さん監修のグールド特集をビデオに録画して何度も見ていて興味があったので買った。浅田彰さんと坂本さんが親しいというのは、後で読んだ本で知ったのだった。
大学に入って作曲を勉強するようになると、段々と「反抗期」に入っていく、ということも経験した。坂本龍一さんに対しての「反抗期」である。他のことも知るようになってどんどん生意気になっていった、そんな時期だった。だが、そんなときでも結局は動向をチェックして、それから十数年後は多少は自分も世間に揉まれ、その後しばらくしてまた素直に坂本さんの音楽に触れられるようになった。
坂本さんのアルバムでベストを選ぶのはなかなか難しい。テープに録音していた時代から良く聴いていたのは『音楽図鑑』だったが、これは段々と好きになっていったアルバムだ。今はもちろんとても好きなアルバムの一つとなっている。『Beauty』のクオリティもすごいと思うし、『B-2 UNIT』もカッコいいと思うが、近年のアルバム『async』は本当に最高傑作だと思う。そして、生前のラスト・アルバムとなった『12』は音楽を作る者としてシンパシーを感じざるを得ない。
『MEDIA BAHN LIVE』で好きになった曲の一つに「Ballet Mécanique(バレエ・メカニック)」という曲がある。オリジナルが収録されているアルバムが『未来派野郎』というタイトルなのだが、未来派というのは、20世紀初頭の主にイタリアを中心とした前衛芸術活動のことで、フランス人画家のレジェが作った実験映画が『Ballet Mécanique』で、そこで使われているアンタイルの楽曲も同タイトルであり、おそらく、そこからのタイトルの引用なのだと思う。アンタイルの楽曲は大学時代、アンサンブル・モデルンの演奏のCDで聴いたが、結構好きな曲だ。
教授の「バレエ・メカニック」に話を戻すと岡田有希子さんへの提供曲「WONDER TRIP LOVER」のセルフ・カバーだというのは大分後で知るのだが(中谷美紀の「クロニック・ラブ」も同じ曲)、その楽曲の歌詞の日本語部分というのが、とても印象的なのだ。
ボクニワ ハジメト オワリガ アルンダ
コオシテ ナガイ アイダ ソラヲ ミテル
オンガク イツマデモ ツヅク オンガク
オドッテ イル ボクヲ キミワ ミテル
(作詞:矢野顕子 作曲:坂本龍一)
“教授“の時代から"坂本龍一”になっていくにつれて、坂本さんのピアノの演奏の仕方も変わっていった。最初は思い切り鍵盤を弾いていたように思うが、段々と優しく響かせるような演奏に変わっていった。
坂本さんはある意味、特に音楽に関わっているときには、理想としている自由な自分にとても近づけていたのではないか、と僕は思っている。
本当に、本当にありがとうございました。
どうか安らかに。