【徒然映画日誌】LEGOムービー #3
はじめに
これは子供向け映画ですよ、ええ。
でも「子ども」向け、ということは「親」向け映画でもあるんです。
小学生の息子が観る映画に残虐なシーンがないか、過度にエッチなシーンがないか、親としては気になりますもんね。
この映画はかつての子ども達を含めた、全ての子ども達に向けた映画でした。
レゴのホームページを訪れると会社のコンセプトと思われる文章が書いてあります。
”As children shape their own worlds with LEGO bricks, we play our part in having a positive impact on the world they live in today and will inherit in the future.”
自分の世界をレゴでつくりあげる子ども達が生きるこの世界に良い影響を与え、未来へ残していくことが我々の役目です。
適当に訳してみましたがこんな感じでしょうか。
訳し方次第では「子ども達が生きる(レゴでつくりあげた)世界にいい影響を与える」とも訳せるところがお洒落だなと思いました。
この映画の中に繰り返し描かれる他の映画のオマージュやメタファーも、レゴの様に既存のものから新しいものをつくるという特徴に沿っており、映画ファンはニヤリとするシーンが多かったのではないでしょうか?
レゴワールド
主人公は何の特徴もない作業員エメット、マニュアルにのっとって生活し、無色透明な生活をしていました。そんな彼が予言の「選ばれし者」だと誤解をうけるところから物語は始まります。
レゴの創造性をよしとしない「おしごと大王」によって世界は分断され、「あるべきものはあるべき場所に」という考え方と、強力な接着剤によって固定化されてしまうのを阻止するため、強力な仲間と共に闘いますがうまくいきません。ここには構造主義的な支配者の「決めつけ」がみて取れますね。
この映画は「構造主義的決めつけの世界に、穴を開けにいく物語」と言い換えられるのではないでしょうか?
しかしユニークなのは「予言はウソだが、誰もが選ばれたものになれる」という言葉を信じてエメットが行動を起こすシーン、メタ的にみると「先に構造があり、そこに自らを当てはめにいく」という構造主義的なアプローチをとっている点です。
そう、構造主義は一つのものの見方ではありますが、決して悪いものではないのです。人はその構造によって自分の中で物事を整理したり、絶対的に決められないものを相対的に決めたりします。「考え方」は常に手段であって結果ではないのです。
The Man Upstairsでの構造の変化
この映画はレゴワールドという世界と、それを作っていた「上にいるお方」の世界に構造が分かれていました。そしてエメットに魂を吹き込んでいたのは「上にいるお方」の一人である少年フィンでした。
レゴをレゴたらしめているのはその「汎用性」と「柔軟性」です。汎用的なパーツを、柔軟に組み合わせることで今までにないものをつくる楽しさがレゴにはあります。何を作ろうかな?どうやって作ろうかな?と試行錯誤するなかで自分らしさが生まれていきます。
対して、「あるべきものはあるべき場所に」と考える厳格そうなフィンの父を、レゴワールドの中ではおしごと大王として、実際の親子関係を代理表象していたというのがこの映画のオチです。
父の想像力と創造力から、フィンは自分らしく試行錯誤する楽しさを学び、息子の成長を見て父も心を打たれる、という展開は父の「あるべきものはあるべき場所に」という考え方の構造が崩された、と言い換えられると思いますがこの崩され方を見てみましょう。
ここでポイントとなるのが構造の崩され方です。強制的な外部からの力によって考え方を変えさせられたり、無理やり従わされたりしたのではなく、自分の家庭の内部から崩されました。自分を見て学んだ自分の息子、父の想像力の要素を持つ家族によって、構造は「内側から」崩されたのです。レゴの世界も元からレゴ自体が抱えているマスタビルダーの創造性というところから「おしごと大王」の世界は終わりを迎えます。
これがきっと外部の誰かによる命令であれば、自ら「妹も遊ばせよう」だなんて言いませんよね。
こういった「自らに内包される要素によって既存の構造が崩される」ことを脱構築と言います。次回からこの脱構築を軸にいろいろ見ていきましょう。
次回、脱構築!!