刻んで刻む夏の味 421
今日は久しぶりに「だっす」(「だし」っていうのかな?山形の郷土料理だそう)を作ったのだけど。
この「だっす」野菜を刻みに刻むのだ。
なすびを、きゅうりを、茹でたオクラをミョウガをシソを…とにかくみじん切りにする。
とにかく切る、どうしたって切る…切らずには作れない、それが「だっす」。
夏野菜の時期にしかできないし、みんな喜ぶし、おいしいし…頭では十分わかっている。いるのだけれど、ちょっと気持ちと時間に余裕がある時にしようかな…みたいに後回しにしがちだったりする。
山形の皆さんは手慣れたものでめっちゃ早く切れたりするのかなぁ…。
まぁ、ひとえにわたしの手が遅いから…という理由でしかないし、だったら時間に余裕持って作りなよ、って話でもあるのだけど…。
それが、今日に限っては畑のお隣さんが「これ、この夏最後のオクラよー」ってたくさんいただいた立派なオクラもあるから、これを逃すとこの夏「だっす」を食べずに終わってしまうな…と思い刻みだした。
刻み始めると作業前までのグズグズはどこへやら、ただただ無心でやっている。
そこで気づく。
「わたしは押し切りしている…」ということを。
「切れないな」「切りにくいな」なんて感じたら自分のやってることをチェック。
包丁は磨がれている=切れるようになってるんだから、原因はわたし…。
そう、やっぱり包丁を「引く」ことを忘れている。
無意識に抜けているのだ、もしくは無意識にまで入っていないのか…。
この「引く」動作のことを思うといつも「ぼくらの七日間戦争」に出ていた男の子のことを思い出す。
子どもたちだけで立てこもっている時(って設定で合ってるの記憶がおぼろげだけれど)料理をする場面があって、慣れない手つきで包丁を使う子たちに料理を食べること・作ることが好きそうな男の子が「違う、ちがーう!包丁を使う時は半身になる!包丁を持っている側の半身を後ろに引いてその姿勢から包丁を引くように使うんだ!」みたいに教えるシーン。
そうだ、引くんだ。
あの男の子もめっちゃ得意げに「ドヤさっ」って感じで言ってたじゃないか…。
できるだけ刃先から柄に近いところまでを使い切るのが理想の使い方だと教わったけれど、日常はほぼそんなに使うような長さのものを切ることがない…。
でも、今日は刻むのだ。
刻んで刻んで、これでもかっ!というくらいみじん切りをするのだ…理想の使い方を試すのにもってこいじゃないのっ!
そう思い直し「引く、引く、引く…」なんて言っていると…
違う…向こうへ押す?滑らせる?それだ。
手前じゃないわ、これ…
え?わたし大丈夫?今までどうやって包丁使ってたん?
なんてなんだか基本の基本が揺らいで、頭で考えているとよくわからなくなってくる。
これは?こうは?えーと…なんて思いつくこといくつかやっているうちに結局、刃先から入っていく方法で落ち着いてきた。
「よーし!これからザックザク切るよー!」
なんて乗ってきたところで、全ての材料を刻み終わった…。
…大体こんな感じだよね「乗ってきたー!」「コツわかってきたー!」「キレイに焼けるようになってきたー!」なんて時に終わるのだ。
時間がかかる、手間がかかるなんてグズグズ言ってたわりに「チェッ…」みたいな気分になるこの不思議。
そんなことを経て出来上がった「だっす」は塩麹とお醤油だけのシンプルな味付けだけれど、ちゃんと「思っていた夏の味」がして、今年の夏もひとつ「夏」をしっかり味わえてうれしくした夜だった。