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真ん中に置けないのは… 607
「あれ?こんなにズレてた?」
今日、土鍋を火にかけながら洗い物をしている時、ふとコンロに目をやって思わず二度見してしまった。
以前「お鍋の中心が熱源の中心に来るように置くといい」と聞き、出来るだけそうなるように置いたつもりだったのだけど…まぁ、ズレている。
思った以上に大々的にズレている。
もうちょっとズレてたら五徳から落ちるよね、ってくらいに…。
どうも自分には感覚というか目分量というか、こういうのも空間認知っていうのか?そういうのが鈍いのだ。
例えば「それ2cmくらい折って」みたいに言われると、その都度わたしの2cmは変わってしまう。
見本みたいに「これが2cmです」って一度見たらその後はなんてことないんだけど、「あなたの中にある感覚で(常識で)2cm」なんて言われると…さっぱり正しいサイズが出てこない。
こんだけ人間やっていても、そのくらい身についていないのだ。
今回のお鍋も「このくらいかな?」って土鍋を真上から見て置いていたけどこうなったんだし…。
こういう「うっかり」というか「不完全さ」というか「ダメさ」みたいなものを「どうにかしたい!」というのは社会的な部分としてないこともないけれど、個人的には「自分はこういうもんだしなぁ」とも思っている。
だから直んないんだとも言えるんだろうけど…。
訓練や経験値で直るなら…とっくの昔に精度が高まってど真ん中ストライクにいってないとおかしいでしょ?ってくらいは鍋をコンロにかけてると思う。
うん…「鍋をコンロにかけるのには50年必要なんだ!このひよっこがっ!」みたいな世界じゃなければ…。
でも、どちらかというと「いつも正しくありたい」から改善したいというより…これが自分のものの見方(のクセ)から始まっているのか、手の感覚の鈍さなのか、別の何かなのか…それを知りたいとは思う。
うん、そこには興味がある。
鍋をど真ん中に置けるようになって快適っ!みたいな快感はさておき、「なるほど、それで人間はそんな動作になるのか…」みたいなことは…興味ある。
それがフィジカルでもメンタルでも。
梅干し作りだったり、足ツボだったり、モーニングページだったりをやっているうちに、わたし達はホントは思った以上に細やかなものと毎日相対しているんじゃないのか?ってことを思うようになった。
きっとみんなそれぞれ捉え方が違うはずだけど、自分は思った以上に今まで無意識に雑にものを捉えていた、というか扱っていたってことは痛感していて。
じゃあ「細やかに見る」ってどうすることよ?って思うと…
ジーッと凝視することでもないんだなぁ、ってことはわかった。
授業を「聞いてます」アピールで「うんうん」うなずきながら聞いたって、わかっていないものはわかっていないってことと同じで、目に力入れてマジマジ見たところで「関心」が入ってなければただのレンズ越しの映像に変わりがないはずだから。
それでいけば「鍋に関心ないのか?」ってところなんだけど…気をつけて置いたはずなんだよなぁ…って思うってことは、この「気をつけて」は関心じゃないってことだ…って、どんどんわからなくなるじゃないか…。
まぁつまり今のところ、鍋がガラス製になって鍋越しに五徳が見えるようになるか、わたしの感覚がある日ぐーーんとアップするかしないと叶わないってことだな、これ。
細やかに…って言葉がホントにわかってるのか怪しくなる着地だけど仕方ない。
そう、今はまだ旅の途中ってことで…。