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梅干しの「奥」で知る、わたしの方が変えること  422

もうとっくに土用は過ぎたのだけど…今年最後の梅の土用干しを始めている。

梅が不作の今年、畑の梅も大きな枝が折れたりしたこともあり(おそらく強風で)収量自体はとても少なかったのだけど、その最後の頃、いつもはないようなヤケが出来ていたり、大きさがすんごい大きかったりすんごい小さかったりと様々な梅がちらほらまばらに枝に残っていた。

いつもは手が回らないから「ごめんね」するのだけど、今年漬けた梅干しの量も少なかったし、なんだかちょっとだけ実験心も働いて、うちに持って帰ってずいぶん遅れた時期から漬け始めた。

今までは樽で漬けたりしていたもんだから、小さなジップロックで収まるそれはなんだかいつもと違っていて。
1kgほどの凸凹梅がさらに3袋に分けられていてなんだかかわいく思えたり、ほぼシーズン終わりで本番の梅が別にあるということもあって、変な気負いもなければあるのは「これって…ちゃんと梅干しになるんやろか」なんていう梅に失礼な実験心くらいだった。


そんなだったのに、か、そんなだったから、か定かじゃないけれど、ジップロック越しに触れるその梅は本番の梅よりも早くほんわりし始め、なんだかのびのび
しているように感じられた。

「あぁ…触り手のそのままが梅に伝わるんだなぁ…」なんて、面白いような申し訳ないような気持ちになりながら、それでも「少なすぎる」梅干しの過程をただただ楽しめて、なんだか贅沢な時間だった。



そんな少なすぎる梅干しと共に、今年は初めて梅茶用の梅干しを干している。
わたし自身は梅茶を飲んだ体験自体もそんなに多くないばかりか、目にしたことも片手に余るほどしかない。

ないのだけれど、梅干しや梅茶を教えてくれている先生の梅茶を今年いただいて…のけぞった。
ハーブティーと梅茶用の梅のブレンドだったのだけど、一口飲んで目を見開いた。
絶妙な甘さとしょっぱさ、そこにハーブティーの華やかさと一緒になったり離れたりの梅の香りに

「え…めっちゃおいしいんやけど!これ、おかわり欲しいんやけどっ!」

なんて久々に湧き上がってきたスコーンとストレートな欲求だった。


そんなおいしいお茶をいただいてしまったら、なおのこと作りたくなっちゃうのが人のサガ…。
人生で初めて、すでに梅干しになっている梅を干すということをしたのだけど…

これが予想を遥かに超えて繊細な作業だった。


手慣れた先生の手を見ていたら、軽々と触っていたように見えたし、それ以上に「すでに梅干しとして完成している」ということそのものが何か安心感というか安定をくれるもの、のように思っていた。

普通の梅干しを干す作業が終わり、その続きで梅茶用の梅を触った時、あまりの柔らかさ、心許なさに「え?」と手が止まってしまった。

うすーい皮の中でスルッと流れる流体のような果肉、クタクタの感触に少しでもこちらの勝手のいいように動かしたなら「パリっ」なんて音もなく皮が破けてこれまた音もなく果肉が流れ出す…

すでに容器から出す時にひとつ破いてしまっていることもあって
「どうしよう…全部破きそう…」
なんて妙に心細くなったりした。


こういう体験が来ると、さっきまで触っていた初めて干す梅がどんなにバウンドするほどの若さというかチカラがあって、どんなに華やかな香りをたたえているのかということを改めて認識する。

そして、そのチカラにわたしの追いつかない技量がどれだけフォローしてもらっていたか、助けてもらっていたかを思い知る。


「出来ません…」なんて言ってられないし「怖いです」なんて自分に言われても「ハイ、知ってます」だし、「破れるの嫌だからやりたくないです…」なんて言おうものならわたしの中のわたしが「ハイ、それは聞きました。続きやってください」なんてしれーっとした感じで目も合わさず言うんだろうし…。

どの道「やらない」はない。
ということは…破れるか破れないか「だけ」しかないわけで…。

こうして書いていると当たり前のことなんだけど…
炎天下でこの妙な葛藤をするなんて思ってもみなかったよね。


そんなこんなで出来ることは「わたしが触り方を変えること」それだけだということで、梅茶用の梅干しを触っていった。

クタクタの感触、香りもわからないけれど、明らかに「梅干しとして食べたら美味しかったんじゃないのー?」なんて思うほどよい姿の梅干し。

よく考えたら、梅干しとして完成した梅をこんな風に手で触ることってほぼないんだよね。
あるとしたら梅干しの果肉を包丁で叩くとか、そんな時くらいでは?
ということは、この感触ってとてもレアということだし、もっというとこの梅の触り方を知らないのは当たり前だったりするわけで。

だから、まさに手探りで探すのだ「わたしと梅干しのよい加減のポイント」を。


「怖いからやめます」ははなから関わりませんってことだろうし、それって人間同士の関わり方も同じだよね。

「わかりません」はわからないことがわかったということ。
わからないから、わかるきっかけになりそうな「何か」を探すのだ。
わたしの方を変えてみるのだ。


そんなこんなで、夏の終わりにもこうして初体験が待っていたのだった。




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