見出し画像

「じゃないもの」に気づいたけれど…  390

「私らは、偉いよ。自分が、最低だって知ってるもん。これって、滅茶苦茶、ラッキーだよ」

すいか 1/木皿泉(河出文庫) 第2話より

ポコっとこの絆さんの言葉を思い出した。

ドラマ「すいか」の中で、職場のお金を横領した同僚・馬場ちゃんの写真を5万円で売って欲しいとメディアの人に言われた主人公・基子さん。
売る気満々でうちに帰ったらすでにお母さんが基子さんに無断で写真を売っていた、1万円で…。

そんなお母さんにキレてうちを飛び出したものの、ホントの本音は5万で売れるのになんで1万で売っちゃたの?4万の損、4万の損…と頭の中を駆け巡る基子さん。
お母さんも馬場ちゃんもなんでお金みたいなものにコロッといってしまうんだろうって思っていたけど、ホントにお金にコロッといくのは自分だった…。

そんなところから、自分はセコくてケーベツされても仕方ない女なんだと凹む基子さんに絆さんがかけた言葉がこの言葉なのだけど。



最近、ツラツラと考えることがある。
「わたしにとって甘いものってなんなんだ?」と。

砂糖抜きをしばらくして、それ以降厳密にストップするのはやめたけれど、うっすら控えながら過ごしていた。


食べられないから「砂糖切れ」で苦しいかといえば…そんなこともない。
疲れた時なんかは「おいしー!」って思うけど、時間でいただくお茶なんかの時=ピンポイントで甘いものを欲してない時は、正直砂糖でも砂糖じゃなくても大差ないように感知している。

で、こういう食べ方を「ゴミ箱的」だな…と思っていて。
欲してないなら食べない、をもっとハッキリ徹底したほうがよさそうだな…と改めて感じている。


「人間はもっと強い刺激を求めるようになる」

このことはよく聞く言葉だし「依存」なんて言葉があるくらいだからその通りなんだろうとぼんやり思っていた。
そう、ぼんやり…ってことは「自分ごと」として聞いていなかったということなのだ。


この間、ふと自分に「甘いもの」が好きなの?「お茶の時間」が好きなの?と聞いてみた。

んー…甘いものは好き、うん、好き。
だけど、辛いもの好きな人が「〇〇倍の辛さ!」って喜んでるみたいに甘けりゃいいかっていうと違う。
濃ければいいか?大量ならうれしいか?
…いや違う。

じゃあ、わたしは甘いものに刺激を求めていないってこと?と考えてみる。
んー…ゴージャスなものだとうれしい?うん、まぁ…でも「そのラインをもっと!普段でももっと!」とはならない。
んー…「甘いもの」と「刺激」がちょっとぼやける。


じゃあ、お茶の時間。
お茶の時間は好き?うん、好き。
リラックスできるから?いや…いつでもじゃない。ご一緒する人による。
ふむ、人に左右されると…。

じゃあ、お茶の時間が好きなのはどうして?

「ご飯の時間じゃないから」

…この答えには正直、自分でも固まってしまった。


確かに、学生の頃、社会人の頃はお茶するのが好きだった。
が、アフタヌーンティーとか飲茶となると自分の中に微妙なブレーキが発動することもわかっていた。

その時は総量が多いからかと思っていたけれど…
もしかして「ご飯味」が混じるからってこと?
だから気が進まなかったってこと?
どうして、せっかくのお茶時間に食事の影を感じないといけないんだ?って思ってたってこと?


それだけ「食」に対しての傷が大きいのか…って思うよりも、いや…ちょっといいかげん幼児性を感じるじゃないの…と我ながら呆然としてしまった。
甘かろうがしょっぱかろうが、口を通して食べている、それも食事の延長だとは考えもしなかったってことか…。

「大人になれ!」ということよりも、好きだと思っているお茶を「食事から逃げるための道具」にしていたってことが情けないというか卑怯というか…。


結局、〇〇倍!みたいなエスカレートの仕方とは違っても、甘いものは継続し続けたわけだし、わたしは食事の「代替え」…食事「じゃないもの」を求め続けていたってことで。
結局お茶で本当のリラックスもできていなければ、食事でまともな栄養補給も出来ず…と、ずいぶん中途半端な状況を自分で自分に与え続けてきたということでもあって…

「最低だな…」って、冒頭の絆さんの言葉を思い出しはしたものの…
まだちょっと自分のことを「偉くて滅茶苦茶ラッキー」とは思うまでには時間がかかりそうなところにいるのだった。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?