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何度も届くメッセージ 485
満月を迎えた模様の今の空は…
曇っていて、ひいき目にみて「ぼんやり明るい?」というくらいで、スーパーなムーンの姿を見ることなく眠ることになりそうな、そんな夜。
ここ数日、いやもう少し前からか、似たようなメッセージが届いているように感じている。
全く関係のないいくつかの場所で「結局ここでもその話⁉︎そのことに通じるの⁉︎」という感じの内容をキャッチしているのだ。
それは「『わたし』を薄めていく」ということ。
いや、こうやって名乗って文章を書いていて「なにが自分を薄めるだ?」なんて思ってしまうのだけど…そういう「表に出る」とか「自己顕示」とはちょっと違うように感じていることなのだ。
500日近くもこうやって文章を書きながら、わたしはわたしとしてわたしのことを、わたしの目線から見たこと、感じたことを書き連ねているのだけど…
漠然と「こうじゃないんだよな」という思いが根っこにあったりする。
それは、「書きたいのはこうじゃない」という言葉のズレのようなものから、そもそも「こんな薄さじゃない」「こんなぼんやりした表現じゃない」「日記じゃない」みたいなトータルの着地まで様々。
「こうじゃないならどんななんだ?」と聞かれると、まだ言葉に詰まってしまうようなボヤボヤの段階ではあるのだけど「何か」が違うのだ。
それは、以前感じていた「自信がないからそう思うんだ」とか「人目につくところに文章を出すということに慣れてないからだ」みたいな理由は全く関係ないらしい…ということはわかってきた。
もっと根本のような、もっと文章になる前の感覚のような感じ。
今「自分のものだ」と思っているようなものを薄めていく感じ、かな…?
例えば、一番近いのは梅干しを作っていた時の感覚。
わたしの欲というかコントロールである感情
「失敗しないように…」
「おいしくできるかな…」
「この作業しとけば大丈夫だよね?」
「体にもいいもんね」
この辺が全部「雑味」、もっといえば「必要ない」という、それ。
感情のような「反応」じゃなくて、「備える」でもなくて、目の前のことを「ただ観る」とか「一旦受け入れる」…んー「そのまま認識する」みたいな感じが近いのか。
好き嫌いとか、成功失敗とか、何か利益につながるとか…そういう判断の前に、目の前のもの、事象・現象を「そうなんだ」と「そのまま受け取る」。
で、梅干し以降「その次」を探していた。
そのまま受け取って…どうするん?と。
受け取ったわたしとその事象の「化学反応」を「待つ」みたいなことかな…
なんて現状では推測の域を出ない。
そんな中、煎茶に出会って以降「美しさ」「整ったもの」「丁寧さ」みたいなものに自分の中でグッと焦点が当たるようになってきた。
お作法マウントみたいな世界が嫌いで距離をとっていたけれど、例えばそれを知って尚それに「縛られずに生きる」とか、それを持った自分を通して何か表現が変わってくるのかもしれない…なんて思うようになってきた。
その関連とも思えるような「美しいものに触れる」や「美しい文章を読む」ということも目に耳に届くようになってきた。
なじみのない、今までの自分では知らない世界を浴び続ける、そうすれば、ある日突然、その内側に自分が居ることに気づくようになる、みたいなこと。
小さな子が言葉を覚える時に似ているなぁ、なんて思いながら聞いていた。
今、わからなくても触れようと手を伸ばし続ける
今、わからなくてもその情報を浴び続ける
「今の自分で」そんなことに手を伸ばしてもいいのかもしれない、と思うようになってきた。
以前は何か「もっとできるようになった自分で」なんて思っていた…
なにがもっとできるようになるんだ?とよくわからないけれど(苦笑)
手始めに「文章の美しい作家」を検索してみると…出るわ出るわ(笑)
そうだった、どの世界もオタクのような極めた方は知ろうとする者に優しかったではないか、と思い出す。
文豪、夏目漱石から谷川俊太郎さん、小川洋子さん、道尾秀介さん…
そうそうたるメンバーから、不勉強なわたしの知らないたくさんの方々、そして、たくさんのジャンルが丁寧におすすめされている。
そう、こうして探してみてやっと、自分のジャンルが狭いことに気づくなど…
いろいろ細胞が刺激されるよね。
でね、こういうお手本のような方々のコピーをすることとも違うと思っているし、「感情」で代表される側の「わたし」を極力使わないことじゃないか?とも思っている。
今までやり尽くした「反応」のように使う「感情」や、「善き方へ…」なんていう大小さまざまなコントロール欲まで…そんなものを抜いた、なんだか薄っぺらで頼りなく感じるような、慣れない「薄まったわたし」みたいなものを使って、進んでいくのかな…とぼんやりと思っているのだった。
なんだか満月の願いを放つというよりも、そのぼんやりしたあかりを頼りに歩いてみようと思い始めたよ、ということになったけれど、そういうこと。
ってことは、スーパームーンも見えない今日のお天気はわたしにちょうどよかったということだな、なんて思いつつ。