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秋晴れの午後に出会ったもの  481

真っ青な空
紅葉が始まった桜の葉
ベレー帽のようなヘタが落ちた大きな茶色のどんぐり
葉っぱと枝ごと落ちた青いままの小さなどんぐり
小さいかりんのような緑の実をつけたぼけの花の木
通りの両脇にたなびく紙垂
遠くに聞こえる太鼓の音
朗々と歌っているようにも聞こえるお経
お線香の香り
しんとした境内
小さく美しい茶器
コロコロと笑う女性
おいしい煎茶

今日のわたしに届けられたものたち。


秋晴れってこういうこと、と紹介できそうなほど真っ青な空の下
今日は父の7回忌法要だった。

町中は年に一度のだんじりが練り歩く秋祭りの日。
そんないろんなことがごっちゃに行われているけれど、とにかくなんだか清々しい本日。


午後からお庭のお客さまのお宅に伺ったのだけど、そこでお煎茶をいただくこととなった。

コロンとまんまるの小さな急須に小さめのお湯呑、丸いお盆に美しく並べられた茶器。会話をしながらもその手は美しく動き続け、お茶をつぎ分けていく…。

えぇ…言葉がつたなすぎることが申し訳なくなる表現で、あの美しい情景がこんなに伝えられないものかと自分の言葉の出てこない加減に本当にがっかりしている。

インスタグラムなどで目にする美しいお茶を扱う方々の姿を「ステキだなー」なんて眺めてはいたものの、今自分の目の前にある急須が日本茶用のものなのか、はたまた中国茶用のものなのかすら区別のつかない自分に、改めて「知らないって残念なことだな…」と思ったけれど、こうして「出会えている」っていうことにも何やらうれしさを感じていた。


全く知識のないわたしにお茶を淹れながら丁寧に説明して下さったその女性は
「とにかく楽しいのよ、こうしてお茶を淹れてお話することが」
とコロコロ笑いながら言っていた。
そんな方が淹れてくれるお茶だからか本当においしくて、こういう「型」の決まったお茶の時間においしさや楽しさを感じられた貴重な時間だった。


思えば、母方の祖父は遊びに行った時にはいつもお茶を淹れてくれていた。
確かに小さな急須、さかずきのような小さな湯呑、「…なんで動作が止まってるの?」なんて思うような所作も含まれていたっけ。

小さなわたしは何もわかっていなくて「たくさん人数がいるのになんで大きな急須でたくさん入れないんだろう」くらいに思ってたな、そういえば…。

その後、社会人になってからお茶をおいしく淹れられる人に数人出会った。
その誰もが温度計も使わずお湯の温度を見計らいお茶を淹れていた…って当たり前かもしれないけれど。
そして、みんな作業をしながら会話もしていた。
「自分がなんの作業してたんだっけ?なんてわからなくなんないのかな?」「しまった!長いこと置きすぎた!なんてことにならないのかな?」と不思議に思っていた。

その中の数人に「温度ってどうやって『今だ!』ってわかるの?」と聞いたことがあったけれど、感覚だったり適当だったりとわたしが使えそうなことは耳にすることができず、そこで「わたしにおいしいお茶を淹れることは無理なんだ」と思うに至った。

ついでにいえば、ルールというかお作法といわれるものが発生するいわゆる伝統のもの…茶道とか花道とか香道とか?(全部「道」だな…)
そういうものに息苦しさを感じていた。
きっと自分はそこに「ハマる」ことができなくて、はみ出しものになっていくに違いない…そう思っていた。
「ハマる」って、興味を深められないって方じゃなくて、「その場の形に沿いながら」自分の学びを深めていくっていうことの方ね。

「その場の形からはみ出さないように…」をやりだすと、本業のことがさっぱり進まないことも多々だし、自分は多くのことに初めて取り組む時、大体大ゴケするのがパターンだったりするので特にそんなことを思っていた。


そんなわたしにそのおいしいお茶を淹れてくれた方は言うのだ
「楽しいから、お稽古に行ってみられたらいいよ」と。

「お稽古」なんていう言葉をいつぶりに生で耳にしただろう。
ちょっとドキッとした。

ということは…無意識のうちに今後の自分の人生にそんな分野の「お稽古」が入ってくることはもうないだろうと思っていたってことだ。
新鮮な感触。
まさに予想外だった。


そんな言葉を聞いていたら、今までの「習う」を超えられるところに来たのかも…なんて思いが浮かんできた。

お茶を淹れながら「楽しいのよ」と話してくれるその方は「この動作をしていたら大体お湯はこのくらい冷めている、って見当がつくようになるのよ」とか「ひとつめの器にお茶を淹れた時、思ったより『薄いな』とか『濃いな』って思ったら、その次の動作を『ゆっくりにしよう』とか『もっと濃くならないようにちょっと急ごう』なんて具合を見ながらね」とか、ちゃんと目の前の「お茶」を見ていた。
「お茶の変化」を見て、それに合わせて自分の動作を変えていた。

わたしの今までの習い事は「こうやったらお手本に近いの?」「これで正しいの?」がほとんどだったように思う。
これ、楽しくないのだ。
好きで始めたはずなのに、やればやるほど楽しくなくなる。


でも、「楽しいのよ」と語るその方の動作を見た今なら、もう一度本当の「習う」が始められるのかもしれない。
以前の自分とは、もしかしたら見方だか考え方だか詳しくはわからないけれど何かが違っているかもしれない。
もしかしたら、「楽しそう」が「もっと楽しい」「好きなこと」になるかもしれない。

なんだか思わぬものがわたしの目の前に現れてちょっと新鮮なうれしさと、これから」への手探りが始まりそうでちょっとウキっとした一日になったのだった。





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