“そうだったのか”中国史メモ ⑤秦・短期滅亡の背景
500年の戦乱の世が秦の始皇帝が天下統一し、人々はももこれで少しは落ち着いて暮らせるとほっとしたかも?しれません。いえいえそう単純にいくはずはありませんよね。統一後に待っていたのは人々に優しくない政策。そして統一後、始皇帝は11年あまりで死去し、秦は15年あまりで滅亡します。
秦の短期滅亡の最大の要因は、始皇帝の死去。もちろん、滅亡の背景には具体的な原因とストーリーがあります。今回は、原因を手短にまとめました。次回はストーリーをまとめます。
Noteは私の備忘録なので、簡単にまとめてますが、個人的な感情移入もあるので、鵜呑みにしないでくださいね。詳しく知りたい方は参考ページを最後に載せているのでそちらを読んでくださいね。
1)秦の滅亡の背景
1.70万人規模の人民を死ぬほど酷使する大型土木事業
戦争はなくなっても支配者に死ぬほどにこき使われ、人民の不満増大。以下主要な超大規模土木事業。
驪山陵(りざんりょう・始皇帝のお墓).
阿房宮(大宮殿)
万里の長城
2. いきなり他の6か国に秦の厳しい法を実施
今まで問題なかったことが、いきなり罰せられる。秦の法は公正な面もありますが、厳格に罰する恐怖政治の面もあります。それらに慣れていない他国では混乱と不満が増大します。
3. 始皇帝の豪奢な大巡行で各地の負担や出費が増大
巡行のための道路の整備、食事、宿泊などすべて現地負担。地方では不満増大しました。
この大巡行は、始皇帝自身が地方の様子・進捗状態を確認したかった、天下の皇帝として人民に知らしめたかった、からと言われます。
結果として、始皇帝自身の体力を消耗させました。また、始皇帝を身近に見るチャンスによって、多くの野心家たちの心を刺激しました。
4.中央集権制度の長官は役人。軍も動かせない。
秦は郡県制を廃止し、新たに中央集権制度によって、地方に人事異動型の長官を配置しました。長官の主な仕事は中央の命の発令と税の徴収。地方で反乱が起こっても軍を動かす権利もありません。反乱に抵抗するどころか、反乱軍に協力するものも出できました。
以上のようにあまりにも短期で急ピッチで劇的すぎた政策によって、天下統一されたものの、人民の不満を増大させる結果になってしまいました。
絶対的支配者の始皇帝亡き後、中央集権制も裏目に出て地方での反乱勢力の出現を安易に許してしまいます。
2)統一後の始皇帝の変化
さらに天下統一後の始皇帝にも変化が出てきます。
不老不死のために怪しげな薬を飲んだ始皇帝
統一後の始皇帝の年齢は50歳くらい。世の中の頂点に立って最も恐れたのは死だと言われます。不老不死の妙薬を必死に求めます。
始皇帝は辰砂(しんしゃ)・賢者の石と呼ばれる、硫化水銀の鉱石を不老不死の薬として飲んでいたのでは?と推測があります。水銀系ですから体にいいわけはないのですが、当時は不思議な石として信じられていたようです。命を顧みず、ここまで生き延びてきた始皇帝ですが、無敵になったとたんに死をおびえ始めます。死への恐怖と時間への焦り、奢りと皇帝としての偉大さを人民や後世に伝えたいプレッシャーが、自らの寿命もひいては国の寿命も縮めてしまった、とも言えるでしょう。
人を信じられなくなっていた始皇帝
度重なる暗殺未遂で始皇帝は猜疑心をより強めたようです。戦争中はもちろん、残忍に敵を滅ぼしますが、側近や無実の人に対しても始皇帝は過剰反応です。皇帝を批判したという噂で、一族や関りのあるものを一挙に処刑しています。始皇帝は、誰が敵か、どこに敵がいるかわからない、状況で心が落ち着くはずもないのです。
統一後も強引な政策によって一般人民も不満も持っていたはず。ある村で「皇帝が死んで土地が分かれる」と書かれた石を発見。犯人がわからず村ごと皆殺しにしたと言います。恐怖によって不満や不平を抑え込もうとしたのかもしれません。でも、そんな恐ろしい始皇帝に優秀な人たちは仕えたいでしょうか。優秀であることは、始皇帝に危険視されやすく、とても危険なのです。
結局、太鼓持ちで私利私欲の塊で反乱などしそうもない(ように見える)宦官の趙高を重用し信用したのは、始皇帝の最大の不運。とは言え、趙高は宦官として始皇帝が若きときから、傍らにいて仕えていたのではという話もあります。そんな密着した関係だったとしたら、始皇帝ですらその本質を見抜くことは難しかったかもしれませんね。また、趙高も始皇帝の死で豹変した?のかもしれないですよね。
3)まとめと感想
こうして振り返ってみると、なぜ秦が短期で滅亡したのかが見えてきます。戦国の時代に共通の理想と目的を持ち、武将たちに報償もバンバン出せる時代から、天下統一後は、いかに現状を統治し、国を繁栄・継続させるかが重要になってきます。課題が違ってきます。天下統一できたことが奇跡なら、国土も広い、人も多いし、猛者もウジャウジャのいる中での統治は、かなりの難題ですよね。
統一後の始皇帝は、自己顕示欲と不安と焦りの塊になっているように見えます。反逆や自らの死を恐れ、心が落ち着きません。皇帝としてあるべき偉大さを求めます。そんな心の隙間に言葉巧みな趙高が入り込み、李斯の政策の正当性に希望を見たかもしれません。
偉業を成し遂げても必ずしも幸せになれない偉大な人間の姿を見る思いです。
参考)ウキペディア:三皇五帝・Sience Poral China, 中国史の始まり!「三皇五帝時代」をゆっくり歴史解説!(youTube), コトバンク、Mythpadia, 世界史の窓、ホンシェルジュ、世界の歴史まっぷ, 俺の世界史ブログ、古代中国春秋遥かに(大田牛二)、オーズ・リサーチ・ラボOZ RESEARCH LABO(Youtube)、Wikiwanda、はじめての三国志、study-z