タバコの味がしなくなった

 仕事を終えて、帰宅してすぐにタバコを吸った。吸ったが、いつもの味がしなかった。1本目も2本目も味がしなかった。その日の朝、会社の喫煙所で吸った時も味がしなかった。その日は一日中、タバコの味がしなかった。
 おいしく吸えないのなら、タバコは吸わない方がいい。体にもよくないし、吸えなくてイライラすることもない。ただ、なぜ味がしなくなったのか。それが気になって考えた。
 正気でいる時間が長くなるほど、タバコの味はしなくなるんじゃないか。それか、正気でいるときにタバコを吸うと味がしなくなるか、のどちらかだと思えてきた。
 今週から研修先が変わって、現場から事務よりの研修になった。仕事を終えて帰宅した時の体力は、現場研修のときと比べて明らかに有り余っていると分かる。逆に、現場研修の日の帰宅後は、自分が疲れていることが分からなかった。次の日の朝になって気がついた。疲れていても体を動かさなければ仕事にならない。体が疲れていることを無視して、その日の作業をしなければならない。自分が疲れていることを無視して、自分がしなければならない仕事をこなす。それは、疲れている自分と、その日にしなければならない作業を行う役割としての自分を、分離させているといえる。疲れている状態での、その疲れているという条件を無視しての作業は、正気での作業ではない。体調に異常のない人間が作業しているという想定に、疲れている人間が合わせて行う作業は、正気での作業ではない。それは酔っている状態での作業とする。ちなみに、アルコールでの酔いは、血液に溶けたアルコールによって大脳が麻痺している状態らしい。だから、正気と対立するものを表す言葉として「麻痺」を使う。
 麻痺での作業は、疲れているという条件などの目の前で線が引かれた枠組みで行われる作業だ。一つのまとまりの内部にいながら、その外部から目を逸らした状態が、麻痺といえる。正気であるということは、あるまとまりには、外部があることを分かっている状態といえるだろう。まとまりはあるにはあるが、そのまとまりは何かを基準に線引きされてできており、内部と外部があることを知りながら行われる作業が、正気での作業だ。
 正気であっても、疲れていながら作業をすることがあるかもしれない。しかし、正気であるから疲れていることを分かっている。麻痺していると、自分が疲れていることを忘れてしまう。そして、疲れていることに気づきながら、それを無視して麻痺しながら作業することは、心地よい酔いになることもあるはずだ。よく考えてみると、疲れているのに早起きして仕事をするのは変だ。疲れているなら、すこし休んだ方がいい。正気の状態で疲れている場合、そのときに取る行動は休むこと。
 心地よい酔いになるワーカホリックタイプの麻痺は、体に悪いのに吸うタバコに似ている。似ているが、健康への害を無視するときの、その健康への害は、タバコを吸う本人が決めているのではなく、おそらく厚生労働省が決めている。つまり、タバコによる麻痺は、厚生労働省が設けた内部と外部で行われているといえるかもしれない。
 しかし、私はタバコが体に悪いからではなく、味が好きだから吸っている。いや、味が好きというのは二番目の理由で、一番は、雰囲気がいいから吸っているのだと思う。雰囲気とは、内部の雰囲気のことで、その内部に浸ったときに心地よければ、それは雰囲気がいいといえる。これも麻痺だ。でも、そこには外部の存在がないような気もするが、しかしタバコを吸っている私という存在はそれ自体としてだけで存在しているともいえない。
 正気と麻痺というのは、ある行為が続いている間、複雑に切り替わっている。タバコを吸う。タバコを吸い終わったあとの次の作業を吸いながら考える。このタバコを吸っている間に、別なことをできたのにと考える。考えていたのに、タバコを吸って味を楽しむ。正気、麻痺、正気、麻痺。
 ある行為を選択すると、その行為で麻痺する。正気でいるか、麻痺するか、休むか。麻痺し続けるためのドラッグ。休むための布団。正気でいるために、外部があることを知ろうとする。外部の限界とは内部の限界で、限界を決めることは麻痺を選択したことを意味している。常に外部がある。外部は世界ともいえる。世界の中に自己がある。自己の成長のためというエゴのために外部を知ろうとするのは麻痺だ。成長という麻痺。外部が正しいという麻痺もない。正解などなく、ひとそれぞれ麻痺のスタイルも違う。ある内部があり、その外部には複数の内部が場合によっては重なりながら存在している。内部同士が重なりあうことで、複数人での麻痺が可能になる。しかし、そういった複数人での麻痺が危険なことは歴史が示している。示しているが、複数での麻痺が全て危険とは限らない。
 麻痺は、ライフハックみたいだ。麻痺するための便利な器具。その器具を使って複数での危険な麻痺、いわゆる戦争や虐殺が行われる。麻痺を悪用する者の策に乗らないようにする。そのために外部が必要で、戦争を起こそうとしている者をその外部から見ることができるようになれればいい。世界対自己という対立があるとするならば、世界の側から自己を見れるようになったとき、あらゆる麻痺を確認することが可能になるだろう。自分が麻痺していることを気づけるかどうか。気づいてしまうと、酔いが醒める。その反動がくる。二日酔い。吐き気。体の痛み。まずは少し休もう。そのあとに、アイスを食べて、麻痺する。ビリビリじゃなくヒンヤリ。
 それだけじゃあれ?って感じになるから、外部を知ろうとする。それは難しい。誰かと話したり、本を読んだり、自分の趣味じゃない世界を知ろうとするのは難しい。が、それは麻痺していないから難しく苦痛に感じる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?