『弾丸宣言』

 放たれた弾丸の責任は、銃にある。私は、銃を、文章を書くことで作っていたのかもしれない。そうすると、この文章は弾丸ではないことになるだろう。銃を、あるいは自らの思想を実践したのは少ない。少ないどころか、私にはそのような記憶がない。これまで書いてきた文章は、弾痕だ。生活のなかで受けた影響を、弾痕として鑑識に調べさせる。弾痕という比喩から始まっているから、この話の本質を捉えそこなっている気がする。
 自由と、その自由の結果に対する責任。銃身は、常に冷静でなければならない。とはいえ、自分のことは分からない。それは、私が弾丸だからだ。銃身は私の外にある。それは、宗教のようであり、書かれている文章は教義だ。もし、銃が、理性が、私自身であると考えるならば、それは責任逃れだ。責任、つまりそれは家でもある。帰る場所としての責任。帰る場所としての思想。私は、内装・内観を作る仕事をしていた。弾丸に火薬を詰めるのとはちがう仕事をしていた。私は弾丸でいたい。
 イデオロギーや思想は完成しない。それらは、それらが書かれたとき、つまり、その時点の私の状況を伝えるモノだ。だからこそ、思想は、勢いで書かれていなければならない。思想が、体系化するのは、今の思想を、未来の人が、過去として学びたいと思い始めてからでいいだろう。
 今、私は弾丸として生き、たくさんの弾痕をつけながら生きていかねばならない。それはなぜだ? もっと進みたいからだ。
 これは弾丸宣言だ。    22.12.24

前提として
『無題』
 つくりたいモノがないことに気づいた。小説も書いてみた。絵も描いてみた。楽しかったけど、つくりたいと思っているかというと、そうでもない。たぶん、あるのは好奇心。同意見だ、今の自分と。おととい手に取った文庫本は『九鬼周造』。もし、これから選ぶ選択肢によって、ごはんが食べられなくなったら、ごはんを食べることができたときの喜びがあるだろう。空腹を予想している。その予想が外れる。賭けをしようか。生活に困るか、困らないか。俺は、困るほうに賭ける。君が、困らないほうに賭けて、もしそうなったら、プレゼントをあげよう。今、僕は、僕として存在していなくてもおかしくはない。でも、存在している。念をおすように、もう一度。僕は、僕が将来、生活に困っているほうに賭ける。
 もう一度、この人生を生きたいと思えるように。何回でもこの人生を生きたいと思えるように。選ぶ、決める、偶然を繰り返す。賭ける。どうなっても笑える。同一性を保ち、そして、同一性を求めるギャンブラーは、勝ちだけを欲しがってる。俺は、命を賭ける。まわるルーレット。止まる。指された数字は、いつかときっと同じ。まわるルーレット。いつかも、それをまわしたはず。つくりたいモノなんてないよ。だってギャンブラーだから。結果を作るなんてイカサマじゃん。俺は、賭けたい方に賭ける。賭けること、その行為、それだけをしたい。  22.12.15 

『弾丸』
 「あなたのあなた」として私がいる、いようとするのをやめる。
 あなたのあなたとあなたは、あなたがいると会う。
 わたしとあなたは、わたしがいると会う。いや、わたしがいると
 わたしとわたしのあなたが会う。
 あなたのあなたとわたしのあなたは、限りがない。
 生は不断だが、散弾ならば、その志を意識せよ。
 わたしは弾丸、その暴力と対立するダンス。
 永遠に続くダンス、論理がないサンサーラ。
 今、わたしは鼠の身、来世は現世、木の実食べる木の実。
 生きているわたしは、同じく生きているわたしを生きたい。
 つまり、弾丸。 22.12.20

『モンタージュ』
 「私」という観念に対面したとき、まるで鏡を見るように、私は「私」を定義づけた。そのとき、「私」は私にとっての「他者」となり、過去的であり、未来的である視線を、私は「私」に向けたのである。
 私とは生命の瞬間、それを形として、時間に表したものが、私の作品だ。
 創作品群は、私のモンタージュであり、「あなたがた」に対する、「あなたがた」の時間・空間をも超越するクラスター弾である。
 既に、空には爆撃機の姿はない。
 あるのは、発散するSと、燃える流星のみ。 2021年6月~7月頃
 

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