横笛の恋塚
かつらぎ町の 天野の里には、『横笛の恋塚』と呼ばれる塚があります。
その塚には「平家に仕えた名門武士、斎藤時頼・・・(後の滝口入道です)が横笛と恋に落ちたが、実のらぬ恋と悟って時頼は出家し、高野山で仏門修行の毎日を送りました。横笛はその後時頼のあとを追い、いつか会えるであろうと高野山麓の天野の里に庵を持ちましたが、恋しい人にあうこともなく、はかなく亡くなった」と記されております。
そして高野山の大円院にも横笛のものがたりは今も語り継がれています。
そんな 若武者 齋藤時頼と建礼門院の官女「横笛」との悲恋物語はご存知でしょうか。
平安時代の頃のある夜、京都西八条の平清盛の邸宅で百余人を集めた宴が開かれていました。 舞が続き、いよいよ夜の最後の余興、若い「横笛」の舞です。美しい娘のあでやかな舞に騒がしかった宴(うたげ)が静まりかえり、みな酔いしれ 見入るばかりでした。 その夜から若い武士の間で 横笛 は評判となり、翌日から大変な数の恋文、プレゼントがこの乙女の朝夕を悩ませました。若い武士達は皆恋に落ち、「斉藤時頼」もその一人でした。 名も知らぬうつくしい女性の舞姿に初めて恋を知った時頼はようやくの思いで名前を聞きだしました。
その日以来、三日とあげず思いを文(ふみ)に託して送った時頼ですが、待てど暮らせど返事は返ってきません。
「私の思いは未だとどかぬのか」
恋に悩む若者は日頃の快活さも消え、病気ではないかと人に聞かれるほど。
思いなやむ時頼の恋心は益々強く、今では生涯をともにする女性はこの人しかいないと思うまでになっていきました。 結婚を決意した時頼は父にこの思いを告げ許しを乞いましたが、身分の違うこの申し出に、時頼の父は大変お怒りになり、 「お前は名門の生まれ、あんな横笛ごときに夢中になって何するぞ」と身分の違いから会うことを阻まれてしまいます。
父に逆らうわけにはいかぬ時頼は恋しい横笛への思いを断ち切る為に京都の往生院におもむき出家をしてしまいました。
一方、思いがけずあの舞台以来、恋文がひきもきらずの日々の横笛は、所詮は殿方の遊び心と恐れて焼き捨てていましたが、三日に空けず届けられる時頼の手紙だけには心惹かれていきました。
月日が流れ、手紙の数も一つ減り、二つ減りしても時頼だけは変わりありません。ふるえる指で封を解き文面に目を通すとあふれんばかりの思いが切々と綴られています・・・。 横笛は、今更返事も書けず と思い悩みますが、恋しさだけが膨らんでいきます。 そんな横笛に 時頼からの手紙が突然とだえました。戸惑う横笛・・・
程なく時頼出家の噂を耳にした横笛は、その理由を知り青ざめてしまいます。「ひと言伝えて欲しかった。」との思い・・・世を捨てて出家するほどに恋い慕ってくれた時頼を探しに御所を出たのです。
探し探したどり着いたのは 日も暮れた夕闇、寺の僧坊から聞こえた念仏の声を時頼と悟り 「ここまで参りました。せめて心を伝えたいのです。」と訴えます。
この時時頼は平常心でいられるはずはありません。襖のすき間からのぞいて見ると、すそは露に濡れ、そでは涙で濡れ、やつれた顔付きの横笛が立っています。
その哀れな姿に心乱れますが しかし出家した身であります。
その気持ちを押さえ込み 傍らの僧に 「ここにはそのような人はおりません。なにかのお間違いではないでしょうか」と言わせるのです。
横笛は泣く泣く帰りますが、自分も仏の道に入る決心をし奈良の法華寺で尼僧となるのです。
その仏の道に身を置く日々は、安らぎを得た穏やかなものだったのでしょうか?それでもなお、燃えるような思いを断ち切ろうと、ひたすら心の格闘を続けていたのでしょうか?
横笛は、ある時おもいがけなく時頼が高野山で修行していることを伝え知ります。 時頼への想いが断ち切れない横笛は、高野山を訪れますが当時は女人禁制、高野山に一番近い天野の里へ移り住みました。
我が思う 人の忘れ難きを 如何にせん
しかしながら、ささやかな庵での生活が少しずつ横笛の体をむしばんでいきます。
あるとき高野山の寒さを避け、天野の里に下りた僧がいました。春になり高野山へ戻ったその僧が、たまたま時頼に、天野の里の横笛という若い尼僧の話をします。 思いを断ち切れて居なかった時頼は数日後、横笛に歌を送るのです。
横笛もうれしさを歌に込めて返します。こうしてふたりは心を確かめ合うのです。 しかし時頼を思う横笛は病に伏す日が多くなりました。
病魔はじわじわと横笛をむしばんでいき、横笛19才の時、花と散りました。
余りにも美しく年若い横笛の死を悼み天野の里の人達は、庵のそばに塚を作りました。これがかつらぎ町天野(あまの)にある横笛の恋塚です。
・・・・これで現世の二人の悲恋ものがたりは終わりを告げるのですが
横笛の思いは消えていなかったのです。横笛はうぐいすになって高野山へ飛んでいきます。
そんな折 高野山の清浄心院の入り口にあった大円院で修行していた時頼は、やがて大円院第八世代住職となり阿浄と称しておりました。
ある日、大円院の部屋から外を眺めていた時頼 阿浄が庭先の梅の枝にとまっている一羽のうぐいすに気付きました。
そのうぐいいすは鳴きながら、時頼・阿浄をじっと見つめていたそうです。
いぶかしげに窓から身をのりだした瞬間、うぐいすはぱっと空へ舞い上がったかと思うと二、三度弱々しく羽ばたき すーっと井戸へ落ちていきました。
「横笛!」
青ざめて時頼は井戸へ駆け寄りました。幻影であったのでしょうか?
羽ばたいたうぐいすの後ろに広がる空のちぎれ雲は、丁度横笛の舞衣(まいごろも)の様で、崩れ落ちるうぐいすは横笛に見えたのです。
時頼は、井戸からうぐいすをすくい上げ、その亡骸を胎内に収めて阿弥陀如来像を彫りました。この像は「うぐいす阿弥陀如来像」として大円院の本尊となり、現代に至るまで伝えられています。 大円院では、梅の木を鶯梅(おうばい)、井戸を鶯井(うぐいすい)と呼んで、今でも大切に手入れがされております。
「この世では結ばれない二人でしたが、心は永遠に結ばれた。」というのが、『横笛の悲恋物語』の最終的な結末になったのです。これは、この世で救われなかった人々の魂も、あの世や来世では救われるという教えそのもののようです。
※天野の里に残る伝説・また平家物語に書かれている内容や碑など各所に残る伝説はそれぞれ少しずつ異なっています。少しでも興味を持っていただけたときはぜひ実際に訪れてみてください。
※本日のお話は高野山大円院に保存されている横笛縁起本を参考に紹介させていただきました。 もみじ
2017年4月10日 放送分
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