もしくは大地讃頌とか歌おう

何ヶ月か前、昔僕と一緒にバンドをやっていて、今はmagic sonというバンドでボーカルギターを担当している市川くんの家に遊びに行った。
彼は22にもなって実家住まいでフリーター。クズかと見せかけて立教大学を卒業しているいけ好かないやつ。眉毛が太い。いつも鼻毛が出ている。童貞。恋人もいたことがない。ガチャピンは彼をモデルにデザインされたという説が有力。そんな人間。

ミュージシャンな彼の部屋は無論楽器だらけで、アコギやキーボードからエレキシタール、壊れたウクレレまでが部屋中に鎮座ましましている。というより放り投げられていると言った方が正しい。
彼は今父親と二人で暮らしているから、平日の日中はほとんど一人きりで生活している。そこで僕らは無人のリビングにアコギなんかを持ち込んで、セッションとも言い難いような愚にもつかない騒音を近所中に撒き散らしたり、屋上に上がってペットのクサガメをいじめたりタバコをふかしたりしている。僕はタバコを吸わないのでむせるなどしている。

彼の家に遊びに行くと大体そのようなことが行われるのだけど、彼は父親に無断でリビングや屋上に友人を連れ込んでいるようで、僕らが帰る時は必ず僕らがそこに存在したその痕跡を抹消するように努めている。
そんなことならリビングに人を呼ばなきゃいいじゃない、とお思いになるかもしれないが、リビングはあったかいし広いし日当たりがいいし飲み物とかすぐ飲めるし優雅にコーヒーを嗜めるし肌を焼くこともできて健康的な肉体を手に入れる絶好のチャンスなのだから、行かないわけにはいかない場所なんです。

そうしてその日もリビングでギターをぽろぽろ、と弾いていると遅れてmagic sonのドラマーである山本直親がやってきて、彼らが音楽に合わせて奇声を上げながらヘンテコなダンスを踊っている様を眺めたりしていたらもう世界は夕暮れ時になっていた。すげえ無駄な1日だな、と思った。

18時半頃になると、僕と山本直親はアコースティックギターを掻き鳴らしながらめちゃくちゃな英語でニルヴァーナのトゥレッツという楽曲を絶唱していた。

喉が引きちぎれるかと思うほど、この声が枯れるくらいに君に好きと言っていた。
市川くんは少し近所迷惑になることを危惧したようで、というかどう考えても近所迷惑なんだけど、黙り込んで「そろそろ静かにしようぜ」的な顔をしていた。ついさっきまで奇声を上げて飛び跳ねていた人間と同一人物とは思えなかった。
楽曲も後半の大絶唱タイムに差し掛かり佳境を迎えた頃、市川くんが、がば!と飛び起きて
「帰ってきたかも...」
と言った。
僕らは大絶唱タイムを迎えていたから何も聴こえなかったけど、黙り込んでいた彼の耳には玄関の扉が開く音が聞こえたようだった。
僕らは演奏を中断して、階段の方へ耳をすませた。人がやってくる気配はない。
と、その瞬間リビングと廊下を繋ぐドアがガチャリと開いて、おっさんが顔を出した。見るからにサラリーマン風のおっさん。市川父だ。

長い沈黙だった。布の擦れる音までが耳に届いた。人が立ち入ることのできない富士の樹海の深淵を想起させるような沈黙だった。
これがごく普通に家の中ですれ違っただけなら、軽く挨拶をすれば済む話。
でも僕らは先ほどまでトゥレッツを大絶唱している。しかも本来入ってはいけないリビングで。
「気まずい...!!」とその場にいる誰もが思った。みんなの心の声がしっかりと聞こえた。それがトゥレッツよりもうるさかった。めちゃくちゃ変な汗が出た。

沈黙を破ったのは市川父だった。彼は息子と二、三言会話をして扉を閉めた。僕はあまりの気まずさに心を閉じていたため彼らがどんな会話をしたのか全く聞いていなかったのだけど、山本直親はすかさず立ち上がって扉を開いて、市川父に「お邪魔してます!」と声をかけた。こいつ偉いな、と思った。

市川父がいなくなった隙に僕らは素早く帰り支度をして、やべーやべーと言いながらそそくさと家路についた。
帰り道、僕はもう二度と他人の家でトゥレッツを絶唱しないと決めた。次はオーラリーとか歌ってお父様を迎えたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?