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小説「姉ちゃんと僕と、僕らのじいちゃん」 1
その日は朝から歯が痛かった。 どこの歯が痛かったのか、結局忘れてしまうくらいなのだから、虫歯ではなかったのかもしれない。
歯が痛くてわざと三メートル向こうに置いた携帯電話を視界の隅で意識しながら、僕は歯イタを耐えていた。 鳴らない電話を憎らしく思うのは、僕がそれが鳴るのを待ち焦がれていたからだ。電話はいつまでたっても鳴らない。
僕は鏡で口を広げた奥を眺めたり、窓を開け放しては外の風に触れてみたり、エアコンのために窓を閉めたり、ベッドに寝転んでは読み飽きた雑誌を手に取ったりした。 着信音が響いた。 あわてて三メートル先の携帯に飛びつく。着信はじいちゃんの携帯電話からだった。
「もしもし」「ゆうや、ゆうや」 じいちゃんの声はずいぶんと乱れていて、じいちゃんからの着信はたしかに僕が求めていたものだったけど、その声は想像していたものと違っていた。「ゆうや、ええか、落ち着いて聞けよ」 心臓が大きく波打つより先に僕はなにかを直感した。「じいちゃん、姉ちゃんは? 姉ちゃんをだしてよ」 じいちゃんが言葉を詰まらせている。じいちゃんの背景の音を僕は集中して聞き取ろうとする。
「じいちゃん、姉ちゃんは?」 じいちゃんはなにも言わない。じいちゃんの喉の奥からなにかが息と一緒に漏れただけだ。
「じいちゃん!」
「ゆうや、あやこが、あやこが死んだ」
この日は高校三年の7月25日で、夏休みで、そして僕の誕生日の前日だった。 僕が待っていたのはじいちゃんの携帯からの姉ちゃんの電話で、それは永遠にかからない電話となった。
父さんと母さんが深夜の交通事故で死んでから、僕と姉ちゃんは、父さんの父さん、じいちゃんと暮らし始めた。
ばあちゃんが死んで三年目のことで、僕は小学五年生、姉ちゃんは中学三年の時だった。
その頃のじいちゃんはばあちゃんのすでに遺体となった写真をいつも持ち歩いていて、会う人ごとにそれを見せていた。母さんがそのことをとても気味悪がっていて、写真を持ち歩くなら持ち歩くで、どうして生きている頃の写真じゃないのか、とぼやいていた。
実際、他人は他人の死体など見たくはないのだ。ばあちゃんの写真を見せられた人はいつも決まって渋い顔をした。にもかかわらず、じいちゃんは「きれいなおなごじゃろう? わしの奥さんじゃった人じゃ」と自慢した。
法事のときに、そんな写真を持ち歩いていてはいけませんぞ、とお坊さんがじいちゃんを注意しても、じいちゃんは聞く耳を持たなかった。
一度だけじいちゃんは僕にそっと打ち明けたことがあった。
ばあちゃんの魂の抜け殻を僕に見せながら、こんなに美しいおなごはおらん、と言った。
生きていたころのばあちゃんもきれいだったよ、と僕が言うと、おお、きれいじゃったなぁ、とため息をつき、しかしここまで恐ろしく美しくはなかったじゃろう、と言った。
写真のばあちゃんは白い着物を着て、胸の上で手を組み、真っ白な顔に薄桃色の口紅を塗られて静かに目を閉じていた。白髪の前髪が白い枕に落ちて細く小さな顔の輪郭は光っているように見えた。
おそろしく美しいという形容は、僕にはピンとこなかった。
そんなふうに表現するじいちゃんを、僕は不思議な気持ちで見つめていた。
白い階段を駆け上がり、かすかに薬のにおいのする廊下を抜けて、僕は病室の扉を開けた。
背を小さく丸めたじいちゃんと数人の看護師がその小さな部屋の、小さなベッドを取り囲んでいた。
その向こうの空は白く曇っていた。
処置が終わりました、と女の声が聞こえた。
姉ちゃんは白い寝間着を着て、胸の上で組まれた両手は崩れないように輪ゴムを巻き付けられていた。黄疸のための黄色い頬は、かすかにピンク色にしてもらっていた。
「ねえちゃん……」
ふーっふーっとじいちゃんは荒い息を吐いて涙を拭った。
僕はねえちゃんの額に触れた。
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