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「四度目の夏」9
よっくんと語り合う夜
「にいやんのうちじゃ、電気どうやって消すん?」
「ターンオフ、っていえば自動で消えるよ」
「へえ!」よっくんが笑った。「ええのう。そじゃ、にいやんの学校の話を聞かせてぇや」
「学校のことは……面白い話なんてないよ」
「都会はどんなやつがおるん? 友達は?」
ぼくはタオルケットにくるまった。ぼくが縁側に近いほうの布団だ。
よっくんに向くと、背中を障子を開け放した窓から風が撫でる。暗闇に目が慣れるころにはよっくんの形をした影が見えるようになった。
「優樹くん、かな」
「ゆうき? 友達一人だけ?」
「うん……」
よっくんが「ふぅん」と相槌をうった。
「なんや、東京はもっとたくさん友達ができるんかと思っとったわ」
「いるひとにはいるよ。たくさん。いやなやつもいる。たくさん」
ぼくはそこまで言って言葉が詰まった。
「最近、ぼくのクラスでは不快なことがあったんだ。いじめ、みたいなこと。おなじクラスに竜太郎っていうやつがいるんだけど、そいつが標的にしたのが視力の弱いやつでさ、彼はその目のせいで分厚いサングラスを掛けてるんだ。でもそのサングラスを竜太郎が奪い取って教室の窓から投げ捨てちゃって、それを追いかけて飛び落ちちゃって」
「そのゆうきってやつ落っこちたんか?」
「ちがうよ。優樹くんじゃない。飛び降りたのは……彼の名前は」
胸のあたりから、小さな生き物が跳ねたみたいに、ぴゅくんと鳴った。息が詰まって咳がでた。
「ごめん……なんかまだこの話はできそうにないよ」
よっくんの影は動かなかった。
「……教室ってのは何階なん?」
「三階」
「落ちたっていうのんは、にいやんの友達なんか?」
影は動かない。
「ちがうよ」 ぼくは答える。「友達じゃない」
なぜかわからないけど、おなじことをもう一度言ってしまう。
「友達じゃなかった」
「別荘地に住むマサキは、友達か?」
よっくんが話を変えたから、ほっとしたように息がもれた。それから息を吸ってぼくは答えた。
「友達、ってむこうは思ってないと思うな。こっちはなんか、懐かしい感じがして、けっこう好きなんだけど」
「なつかしいかんじ? 変人なんやろ?」
よっくんがあくびをしながら訊いた。
「変人? マサキのこと?」
「うん」
「変人っていうか――あのさ、明日マサキの家に行くけど、よっくんも一緒に行く?」
よっくんはすこし考え込んだみたいだった。返事をしないよっくんを見ると月明りで天井に向いた鼻の先がうっすら見える。
「行かん」
あくびのときと違って、はっきりした声で返事が返ってきた。
「あいつ、マサキ、ちょっと好かん。あんまりあいつに近づかんほうがいいと思う」
「なんでそう思うの?」
ぼくはその鼻先を見つめてながら訊いた。
よっくんの横顔がすこし動く。唇を噛んだみたいだった。
「なんとなく」
「なんとなく、なに?」
「なんとなくはなんとなくじゃ。子どものカンじゃ」
よっくんがタオルケットに脚を巻き付けたまま、上げて落とした。どすんと衝撃がぼくの布団にも伝わった。
変人――まだ若そうなのに、こんな山の上の別荘地にアンドロイドマシンと暮らしているマサキはたしかに普通じゃないと思う。
そんなミステリアスな感じがぼくにとってはなんとなく好ましかったし、マサキのことをもっと知りたいと思った。
マサキは初めて会ったときから不思議な感覚をぼくに与えた。
瞳にかかる長い前髪や透き通るような蒼白い肌とか、目の色がどこかモスグリーンな感じとか、いろいろあるけれど、喋り方というか語り口調が独特なのだった。
「よっくんとこうやって語れるときがあるなんてね」
ぼくは言った。
こうやってよっくんと暗闇でしゃべる言葉も、木造の天井を闇の中で立体的にぼくに見せる。ぼくにとって言葉は特別なものだ。小さい頃からそうだった。
母さんが幼いぼくに話しかける言葉や、父さんのぼくに容赦なく言い放つ厳しい言葉(それっておじいちゃんの遺伝子だ。いま思った)が、どこか立体的に、ぼくに響く。
言語を耳で聴くのではなくて、なにか物質的な質感でもって、体で受け止めるのが僕の癖だった。
物心ついたころはそれが負担で話し掛けられると泣いてばかりいた。重度の人見知りだと思われていたと思うけれど、母さんだけは僕の聴力に異常があるのではと耳鼻科に連れて行ったけど、耳には異常はなかった。
ほかのところに異常はあるけど。
とにかく、ぼくにとってはなにげない言葉もその意味以上に重々しいし、のしかかるし、時間の経過をたどってもいつまでもその重みは変わらないから、僕は学校でも部活でも、必要以上に人とかかわらないことに決めていた。
言葉のコミュニケーションを意識的に避けると、そもそも人間関係なんてなんて脆弱なのだろうと思う。言葉しか人間同士をつなげるツールがないなんて。
でもテレパシーの能力がないのだからしようがない。
クラスではなるべくなにも発言しないし発信しないように、教室の片隅で息をひそめている。休憩時間の教室は、人の声で飽和状態だ。いまにもパンクしそうだ。
目を閉じるように耳を閉じることができたらいいのに。
よっくんが虹池に入り、ぼくも入り、透明な水の中に走る小魚を見て、両手ですくおうとしたら、マサキが「それ、ニジマスだよ」と言った。
いつものように言葉は立体的にぼくの耳に差し込む。でもその後が違った。
耳の中で小さく弾けてふんわりと香った。香り?
言葉に香りだなんて、我ながらよくわからないけれど、ぼくの脳がふわっとゆるんで、緊張が解き放たれる。
え…ニジマス? え……なに? それ何語?
おかしなことにマサキにぼくはそんな質問をした。
マサキは深い緑の瞳(光に透かすと彼の目はそんな色になる)をこちらに向けて、眉を歪ませた。
日本語だけど。
今度は言葉の立体感が霧のように散った。こんなことは初めてだった。
きみ、だれ?
ぼくは訊いた。
「真規。北斗真規」
ぼくは目を開けた。
左を見ると、よっくんは寝息を立てていた。ぼくはよっくんにタオルケットを掛けて、縁側への障子をすこし開けた。
縁側の長い廊下を右に向くと、本堂に続く引き戸があるはずだった。でも暗闇に溶け込んで目をこすっても見えなかった。
開け放した窓から空を見上げてみる。月が近い。月が眩しいなんて、白雲岳に来なければ感じないことだ。
あのとき、マサキと彼のオリジナルマシンのブレンダは河原の岩の上からぼくらを見ていた。
ブレンダはなにを思っただろう? マシンが思うとか思考するとか、そんなことはありえないというけれど、本当だろうか。
ブレンダの視線はたしかにぼくらに向いていたし、何かを感じ取っている様子でもあった。そんな気がしただけかもしれないけれど。
それはマシンのなかで検索エンジンが動いただけで、思考したのとは違うのかもしれない。マサキがほかの子供と出会った、という事実を理解しただけかもしれない。理解? マシンの理解はぼくらの理解と同じ意味を持つのか?
ぼくは寝ているよっくんを振り返った。
暗闇に目が慣れたのと障子を開けた明かりで、よっくんが小さく口をあけて寝ているのが見える。耳を澄ますとよっくんの寝息も聞こえる。
去年まではこの部屋で父さんと母さん(去年は継母)と寝ていたから、よっくんと話すとしたら風呂の間しかなかったけど、今年はこうやって男子二人で語り合うのもいいものなんだな、と思う。
よっくんは小学五年生で、体が小さいながらに風呂場で見たよっくんには腕やお腹に筋肉の膨らみがあった。修験道をよっくんはしょっちゅう登っているし、修行するつもりがなくても虹池の滝行が好きであるらしい。天然シャワーじゃ、とニカっと笑う。
ぼくは夏の白雲岳しか知らないけれど、よっくんは冬でも滝に打たれて読経できるようになったらしい。明日の朝のお勤めではそらで唱えることができるようになった読経を披露してくれるらしい。三年前にはちっこいと思っていたよっくんだったけれど、よく考えてみたら三歳しか違わない。よっくんは五年生になってひ弱な僕よりずっとたくましくなった。
ぼくは縁側のあった益司さんものらしい大きな下駄を引っ掛けて、外に出た。
黒だと思っていた夜空は、うっすらと雲の輪郭が見える。雲も近いんだ。その隙間に星が光る。無数の星は東京で見るよりも、瞬きしているみたいに繰り返し光を発散している。
ぼくの視力はここに来てすこし良くなったみたいだ。ぼくはちょっとうれしくなった。
ぼくの耳には異常がなかったけど、視力には先天的な異常があった。(たぶんそのせいで、ぼくの聴覚はひとより敏感になったんじゃないかと、ぼくは思っている)
すこし歩くと石畳は本堂と山門に続いている。石の上に下駄の音は響くけど、そこにぼくの影は見えない。
背後を見上げると、白雲岳の崖肌がそびえたっている。巨大な白雲岳は、星を隠す雲を突き抜けるようにここに君臨している。じっと見つめていると、白雲岳の心臓の音が聞こえてきそうで、ぶるっと震えた。怖いわけじゃないけど、とっさに目をそらしてしまう。
白雲岳町は白雲岳を望む小さな山村だ。
ヒューマノイドロボットはこのあたりじゃ見ないと益司さんは笑ったけれど、配送してくれるのは無人デリバリーの四輪車だし、僕が乗ったあの山を上るバスだって、無人の自動運転バスだ。
この町に病院はないから、ネットで健診AIが問診して患者に必要な薬を発送してくれる。体調はすべてデータ化されて、検査が必要なら検査キットを送ってくれるし、必要なら街の大病院までの無人バスで送迎してくれる。大病院の受付もAIだし、薬剤師もAIに替わった。
マサキの住む新興別荘地ができたのはおととしと聞いているけれど、ずっと山しかなくて、白雲岳を登山する登山者か修行僧しか来ることのなかった白雲岳町は、大手ゼネコンが宅地造成して600世帯の住宅地を切り開いた。
なぜか知らないけど都会のリタイヤ夫婦や、都会に疲れたとかいう若い家族がこの町にたくさん流れてそれにともなって無人バスは走るようになったし、少々離れてはいるけど大きなスーパーマーケットもやってきた。
あくびがでた。
ぼくは部屋にもどって、障子を閉めた。それでも障子からの光が漏れて、その明かりから顔を隠すようにタオルケットをかぶった。
明日、マサキに会いに行く。
ブレンダにも会う。一年ぶりだ。
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