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「四度目の夏」33(最終回まであと二話)
2046年7月27日 11:33
「なにも変わっちゃいない。どうしようもなく毒に侵された科学者だ。正直に言うよ。地球上で最も強い種が人間なのか、あるいはASIなのか、今でも俺は知りたいと願ってしま——」
「わあああああん!」
みっちゃんの泣き声が激しさを増した。
最も強い種がなんであるかを――
母さんがぼくに話したことがある。
——地球上で人間が支配的な生物種になったのは、筋肉ではなく、脳が理由なのよ。
資源をめぐって戦う、そして人間を食べようとする動物よりも人間の筋肉はゆうに劣っているのに、どんな生物種よりも美しかったわけでもないのに、人間は頂点に立った。
筋肉でも美しさでもなく、知能がわたしたちを進化させ、勝利させたの。
ぼくはドアにもたれたまま床にしゃがみこんだ。
目の前にホログラムの光の粒子で立体的なマサキの姿がある。その横にブレンダが立っていた。
「あなたは、誰なんだ……」
ブレンダが慈悲深い表情でぼくを見つめる。マシンのその深いまなざしに、ぼくは泣きたくなる。
「母さん……?」
3Dのホログラムからすーっと腕が伸びてくる。ちいさな光の粒子が流れて、波のようにさざなむ。ぼくの肩をつかもうとする。
「来るな!」
ぼくはとっさにドアに背を当ててその腕をかわした。
「USBが欲しいの? 母さんのラボがこの0期を欲しがってるってこと? 母さんはぼくが恋しくて会いに来たんじゃなくて、死んだあとにまでこうやって任務をこなしてるの? ラボのやつらに母さんの脳を利用されて? こんなマシンにさせられてまで?」
これは現実なんだろうか。
それともぼくは狂ってしまったんだろうか。
目の前のマシンがぼくの、あの母さんだなんて。
「あなたは姿を変える必要があったんだ。ぼくに、悟られないためだ。この0期を益司さんから奪い取るために、ホクトマサキを餌にぼくを利用したんだ……!」
「USBを……はやくハードディスクに差し込め」
マサキが言った。二人がぼくをじっと見つめている。ぼくはメモリを右手に握りしめたまま顔を腕で顔を拭った。立ち上がり、ブレンダに聞く。
「母さん、これを渡せば、ほんとうに世界は救われるの?」
光の粒子がかすかすに揺れた。頷いているように見えた。
ぼくは立ち上がり、ブレンダのホログラム突き抜けて益司さんのハードディスクにメモリを刺した。もうひとつホログラムが再生されておびただしい数の記号や文字や数字が流れていく。パーセンテージが表示され、数字が大きくなるごとにマサキたちのもとへの移管を表している。
ぼくはそれを突っ立ったまま見つめることしかできなかった。
ふと違和感を覚えてドアを振り返った。
あれほど泣き叫んでいたみっちゃんの声がしていない。ドアを叩く音もない。
ぼくはドアに戻り、耳を当てた。無音だった。
「益司さん……?」
大きな電子音が鳴り、体がビクッと震えた。0期のデータは完全にマサキに渡ったことを知らせる音だった。ブレンダがまだそこにゆらゆらと揺らめいてぼくを見つめている。
なんでドアの外がこんなに静かなんだ? 益司さんはこの音を聞いて観念したのかもしれない。だけどみっちゃんは? 佳奈恵さんは? よっくんはどうしてる?
「益司さん? よっくん?」
おかしい。静かすぎる。
ぼくはドアノブに手を伸ばした。金属製のドアノブの冷たい感触をひねって開け――その光景にぼくは後ずさって悲鳴を上げた。
ドアの外には、なにも、なにも、なかった。
よっくんもいないし、益司さんもいなかった。
佳奈恵さんもみっちゃんもいない。
その空間は、なにも、なにも、なかった。
あるはずの場所にあるものがなかった。フローリングの廊下や階段も見えない。色もわからない、空気の流れも感じない、音もない、底もない、飲み込まれそうな空虚だけがあった。
「な、なに、これ! 益司さんたちをどこにやったんだよ!」
ぼくはホログラムにむかって叫んだ。
浮かんでいるホログラムにノイズが頻繁に入り、マサキの姿がおぼろげになっていく。ブレンダをかたどっている光の粒子が急速に明るさを失っていく。
「か……!」
ぼくは叫んだ。ありったけをこめて叫んだ。
「母さぁん!」
涙がいくつも落ちた。
「母さん! 母さん! 母さん助けて! 母さん!」
ぼくを見つめるブレンダに手を伸ばすのに、実態はどこにもない。ぼくの手はブレンダを突き破って光の粒子の波が揺らすだけだ。
「あ、ああ……」
突然――意識がぼくから剥がされていく。
瞬間に、ぼくは益司さんの寝室が視界に入る。キャビネットに飾られた、三年前、ぼくらが初めてここに来た時の記念写真――父さんと母さんと、ぼくと、益司さん夫婦と、まだ幼かったぼくのいとこたち、それからおじいちゃんとおばあちゃん――父さんと母さんの間で、大きな色つきの眼鏡をかけた少年が映っている。
あれは——
あれは和也くんだ。教室の窓から落ちた和也君だ。
視界に映る色という色が茶一色にしか見えない。色があるとすれば、それはすべて薄いセピア色だ。マサキのリビングルームのような、単一の色だけでぼくの世界は成り立っていた。
写真のなかの少年は、ぼくだ。
ぼくだ。
ホログラムが目の前にふたたび浮かんだ。いや、ホログラムじゃない。
腕を伸ばせば触れらる、ほんとうの、ブレンダだ。
ブレンダは細い瞳に優しいほほ笑みを見せている。
ブレンダがセピア色に笑っている。
視界の端から、一気にぼくの世界が茶色に染まっていく。細胞がウィルスにおびただしく浸食されていくみたいに、ぼくの世界いっぱいのちいさなピクセルがいっせいにひっくりかえって茶という単一色に変容していく。
あのときぼくは昼下がりの教室で、竜太郎にサングラスを奪われて、それをとりかえそうと躍起になって、竜太郎が眼鏡を窓に向かって投げた時、ぼくはサングラスを追いかけて校舎四階の教室から落ちた。
落ちる瞬間にぼくが最後に見たのは——
きみは、世界がどんなふうに見えるの?
ぼくにそう聞いたのはクラスメイトの優樹くんだ。
だけど優樹くんはぼくを竜太郎から守ることはなかった。助けてくれることはなかった。黙って見ていた。
きみこそ、世界はどんなふうに見えるの?
ぼくは色とりどりの世界を見ることのできる優樹くんをうらやましかった。
ぼくは優樹くんになりたかった。
もし生まれ変わることができるなら、優樹くんに——
サングラスは手をすり抜けて窓から落ちてしまった。そのままぼくは勢いあまって窓を飛び越えてしまった。その瞬間にぼくは優樹くんと目が合った——優樹くんは落ちていくぼくを見て、そしてその顔を歪ませる——いまにも泣き出しそうな顔だった。悲鳴をあげたかもしれない。ぼくの名前を叫んでくれたかもしれない。
聴こえなかったけれど、きっとそうだ。
ぼくは優樹くんになりたかった。
ブレンダがぼくを見つめている。
観音菩薩様みたいに笑っている。
バーバル社が作った、より人間的な、より人間的な——よりフレンドリーな、よりフレンドリーなヒューマノイドマシン。ぼくはきっと夢の中で夢をみている。きっとそうだ。きっとそうだ。
きっと目覚める。そのうちに、きっと——
ぼくの声はだれかを呼んでいる。
母さん。
ぼくの母さん。
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