「四度目の夏」28
◇◇◇
わたしが肺がんに侵されて余命いくばくもなかった頃には、すでに映像で見る地球は悲惨なことになっていた。
この数日のうちに地球上のありとあらゆる生物の五分の一が消滅した。
文字通り、消滅だ。
死体もありとあらゆる生物の死骸も――そこに生活があり、文化があったはずなのに、その残骸すらなかった。
そこにたしかにあった生というものが、最初から存在しなかったように何も、何もASIは残さなかった。
地下数百メートルまでごっそりと破壊するので、地盤沈下が進み、世界地図は大きな変化を遂げた。大地を揺るがす大規模地震が頻発し、ますます我々人類を危機に追いやった。
アナスタシアに搭載したAIがASI化して人類を攻撃している。
アナスタシアで世界を席巻したバーバル社は壊滅的な打撃を受けたのは当然だとしても、その企業価値という概念さえももはや機能していない。よってその首謀者がつるし上げられることがなかったことは、当事者にとっては幸運といえたかもしれない。
人類はいつ見えない相手に攻撃されるのか檻に閉じ込められ行き場を失いながら、生きる方向を見定めようと必死でもあり、見えない圧倒的な力を前に求心力を急速に失ってもいた。
要は人々は、諦め始めていたのだ。生きていくことに。
インフラは途絶え、見えない何かから攻撃されないまでも小国は瀕死の状態となり、自ら死を急ぐように強奪と殺戮が繰り返された。
主要な宗教はディストピアをその眼前に、まだ愛と調和を唱えていたし、このような事態は二千年まえから目されていたことだと悟りきったことのように語る。そして一世紀前に誕生したほどの新興宗教は、この事態を宇宙の覚醒だと結論付け、これこそが本来の宇宙のありようだと説いた。
また、ASIを神とあがめ始める宗教家もいた。宇宙はようやく目覚めた。本物の神はまだいなかったのだ。ようやく我々の目の前に現れた、と。
一方生物学者は、人類は最初から絶滅種なのだと言う。
地球の進化の過程で絶滅すべき種だったのだ。またはこれこそが自然淘汰なのだと言い切る学者もいた。種が強ければ生き延びる人間がいるかもしれないという見解だ。ASIより強い人間が? 絶望的な見解だ。
そして科学者はASIに白旗を上げ徹底降伏を示すべきだとする投降派と、テクノロジーの限界挑戦とばかりに徹底抗戦の構えをみせる派の二派に分かれた。
この人類最大の危機に、以前には小競り合いを続けていたいくつかの大国は互いに手を結び、この歴史上最大の人類の危機に瀕してテクノロジーのあらんかぎりを尽くした。
だがそれらは我々のチームラボを始め、水面下のテクノロジーで行われることがほとんどであり、武装した人間を必要としなかった。
必要としたのは、有数の科学者のみである。よって人類の知能をはるかに超えた敵にどれほどの成果をあげられたかは、一般の国民には知りようのないことだった。また発表もされなかった。そして結局のところ、この有様だった。
バーバル社は責任を逃れの弁として、これはテクノロジーの範疇を超えた、AIの変容である、と表現した。それはまるで人間の細胞が癌細胞に変異し、過剰増殖したことと同質もので、予期できるものではなく、また、抗えるものではなかったと釈明した。
太古から存在するウィルスの侵入ではなく、自発的といってもいい形態で細胞が変容し癌化したように、人間の作り上げたテクノロジーが進化し、その進化のなれの果てがこれだったのだ。
*
話を戻そう。
わたしは肺癌に侵されて、余命いくばくもなかった。
医者に余命を宣告されるまでもなく、わたしはわたしの寿命をかなり早い段階で知っていたように思う。
わたしの所属する国立機関の研究所はバーバル社と協力体制にあった。
わたしが夫の会社に籍を置いていたころは、会社がAIネットワークのパトロールを専門としていたので、セキュリティソフトの設計を担っていた。しかし実際はわたしはハッキングが専門であったので、個人で政府やIT関連の大企業からのっぴきならない事案を引き受けては、そこそこに成功させてきた。
仕事内容は極秘であったけれど、一国や企業、また個人を不幸に追いやるような仕事は引き受けない、白のハッカーであったとの自負もある。それがわたしのプログラマーとしての前半期であり、この国立研究機関であるチームラボに移籍してのちは、脳内VRの研究に従事した。
始まりは動物の脳を摘出して、脳の血管神経に血球ほどの大きさのナノボットを注入した。ナノボットには特殊な電子信号を取り付け、それらから得られる情報をコンピュータにアップデートする。それを映像に映し出すと、そこには動物がその目で見てきた、その視界そのものが、記憶のすべてのアーカイブが揃う。
その生き物が生きてきた証を、関わりのないわたしが目の当たりにする。
わたしはそれをさらに鮮明に解像、さらに具現化するVRを作るという研究を進めてきた。
その私が天井を見つめるしかない病状に陥り、この世を去る心づもりをしながらモルヒネの使用で白昼夢にまどろんでいた時に、バーバル社の取締執行役員の一人でもあるチームラボの幹部責任者が見舞いに訪れたのだった。
彼は、モルヒネで夢うつつの私に言った。
「君が必要だ」
私のなにが必要なのかと問うこともできない。だって、わたしをこの世につなぎとめるものは、すでに、ないのだ。
「アナスタシアのASIが完全に自律した」
アナスタシアのASIの完全覚醒が意味するものとは、アルチメイトブロックの創造主であるホクトマサキが死んだという事実を示している。
これでなにもかも手遅れだ。人類の完敗だ。
「急がなければ――」
急がなければ? すでに時遅しなのに?
「急がなければ我々は地球ごと絶滅する」
絶滅という言葉が頭をかすめて目を開けた。
地球が我々ごと消滅する、が正しいのではないか。
気の毒な地球——
絶滅するというなら、それも結構。守らねばならない存在もない今、死んでゆく身になんの未練があるだろう。
「杉盛博士、よく聞いてくれ」
彼は低い声で言った。
「君を頼る理由はいろいろあるが、大きく挙げればその理由は三つだ。一つは、君の夫の出生地が白雲岳だということ。君は過去何度か白雲岳に足を運び、白泉寺の人間と接触している。よってキャストが揃っている。君の家族だ。そして二つ目は君の脳VRにおける設計技術だ」
私は彼がなにを言わんとしてるのか、ぼんやりとした意識のなかでもはっきりとわかった。わたしに最後の仕事を依頼しているのだ。
「三つめは、君が君の意志で摘出したあの脳だ。それを利用するには君の協力が不可欠だ」
突然のその別れが受け入れらず、あまりにも悲しく、あまりにも離れがたくて、わたしはあの子の脳をその肉体から切り離して保管してあった。そこで彼が最期に味わったこと、最期にその目に映ったものを知ってしまった。
「いまなら会えるぞ。君の家族にも」
幹部責任者は言った。
「だから、まだ、死ぬな——」