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コンプレックスと共に、静かに燃え続ける

僕はいま31歳。スポーツ系のスタートアップに勤めて丸3年になる。

プロアマ競技カテゴリー問わず、様々な領域のスポーツを「支える人」「応援する人」たちと関わり、スポーツの感動をもっと届けられるよう、一緒に併走する仕事をさせてもらっている。

プロを目指すチームの人、学生No.1を目指すチームの人、競技そのものをもっと広げたい人、選手の活躍を離れた保護者の方に届けたい人。

それぞれ規模感も目指す先も価値観も全然違うけど、みな自分たちのスポーツが大好きで熱中している姿は一緒だ。

けれど、僕自身は猛烈に応援しているチームも見続けている競技もない。

仕事を除けば試合会場に行くことはもちろん、テレビ中継を見て応援することはほとんどないだろう。

これは自己分析なのだが、僕は何事にものめり込む性格ではなくて、感動したら立ち上がったり、声を出して喜んだり、わかりやすくスポーツに熱中することができない。

だけど僕はスポーツが好きで、スポーツに関わっている。

大学生までは、「スポーツの世界で働く」ことが夢だった

スポーツの世界で働きたいと思ったのは、中学生のころ。

小学校から陸上競技を始め、中学校でも当前陸上部に入部、全国大会を目指して陸上雑誌にデカデカと表紙になることを夢見る、田舎の中学生。

練習中に軽い怪我をして地元の鍼灸院に通うことになった。母親の知り合いだからと通った鍼灸院だったが、そこの先生は日本代表チームについて世界大会に帯同するようなすごい方だった。

施術自体はとても痛かったが、なにより一番の楽しみは、先生が話す世界大会の様子や日本代表選手の話を聞くことだった。自然と「先生のように世界で活躍するスポーツトレーナーになりたい」と憧れるようになった。「職場体験」もそこでさせてもらい、先生をかっこいいなと思ったことをよく覚えている。

スポーツの世界への夢を強めた僕は先生からアドバイスを受け、中学生にしては具体的な夢を持ち、早稲田大学スポーツ科学部を目指すことを決めた。

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高校でも陸上部に打ち込みながら、目標のため勉強にも励んだ。「二足のわらじまでなら履ける」と思っていた僕は、陸上と勉強を高い水準でこなすことに喜びを感じていた。

同時に「二足までしか履けない」とも思い込んでいたため、いわゆる学園生活はからっきしだった。「部活と授業以外はOFF」で文化祭すら欠席、休み時間は机で寝ているか、起きてても無表情で無愛想。けれど部活の時間になったら別人のようにウキウキとグラウンドに向かっていた。

そんな部活命な僕の「最後の夏」は、あっけないものだった。本命の800mで臨む県大会決勝。実力的に十分突破できるはずだったが「あと一人」が抜けず敗退した。ラストスパートに自信があったはずなのに、なぜか「抜けない」と諦めて力を抜いてしまったのだ。

自分でびっくりして、諦めてしまったことが悔しくて、レース後にわんわん泣いた。声をかけてくれる仲間に応えようとするも、声が声にならなかった。後にも先にも、あんなに泣いたのは初めてだった。

部活引退後は受験勉強に励み、目標であり念願の早稲田大学スポーツ科学部に進学することができた。800mで最後まで駆け抜けなかった無念も「スポーツトレーナーになる」という夢に託した。

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大学でスポーツを学び始め、次第にスポーツトレーナーからスポーツビジネスに興味が移り、同じスポーツの世界でも夢の形は変わっていった。

ゼミ活動の一環で、スポーツ政策の研究コンテストに参加した影響も大きい。東日本大震災後のアスリートによる復興支援活動をテーマに、現地でのフィールドワークやリサーチを通じて、仲間と一つの政策案を作り上げる苦楽を経験した。

スポーツの仕組みや制度を整える側に回りたい、スポーツビジネスの世界に行きたいと明確に思うようになった。

と同時に、こんな想いを抱くようになった。「スポーツが好きでスポーツを学んだ人間がそのままスポーツの世界に入ったところで、視野が狭い人間になるのではないか?」

一度そう感じたらその気持ちが離れず、まずは成長産業であるインターネットの世界で経験を積み、その後にスポーツ界に行こうと決めた。

その時の僕は順番を大切にしたかった。

そして今から3年前にスポーツスタートアップに転職することができた。

すっと気持ちが抜けてしまい、スポーツに関わるすべてのことから離れようと思った

そんな「幼き頃の夢叶えた」僕だったが、本気でスポーツの世界から離れようと思った時期がある。

2020年1月、30歳の節目を迎える前のことだ。

転職して2年目、鼻息荒く飛び込んだスポーツビジネスの世界だったが、思うように仕事の成果を出すことができず、だんだんと会社で肩身の狭い想いになっている自分がいた。

SNSマーケターとして入社したもののそこはスタートアップ、今までのやり方が全く通用せず苦戦する日々。

マーケティングやスポーツビジネスに関する書籍や記事をとにかく読み漁り、勉強会に足を運んで色々な話を聞いた。要点をまとめることだけは得意だったから、「こうすべき」な方法を持ち帰ってそのまま試してみるも、しっくりこない。

スポーツのことが好きなのだから四六時中スポーツのことを考えてもいいのに、まったくそれができない。

外ばかりが気になるようになり、目の前のことに向き合えない日々が続いていた。仕事をしているようで、どこか心ここに在らずな状態。

自分が持っている仕事を他のメンバーに手放した。

そんな日々が続くと、他業界で活躍する同年代の姿がとにかく眩しく映るようになる。社会的にもわかりやすい成果が出始めるのが30歳前後(と思っていた)。

インタビュー記事が出た、大きなカンファレンスに登壇した、部長に昇進した。友人だけでなく知らない人の活躍「だけ」がSNSで目に入ってくる。

いつのまにか「30歳までにわかりやすく成果を出していなくてはならない」と思いこむようになっていた。

「スポーツに熱中できない」コンプレックスも重なり、「スポーツの世界を辞めた方が良いのではないか?」と思うようになった。

とにかく苦しかった。どうしたらこの深く、答えのない道を抜け出せるかを考えていた。

でも幼い頃から当たり前のように隣にあったスポーツをとったら何も残らない。本気でそう思っていた。

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スポーツから距離を置いたから気づけたこと。

そんな僕を見かねた社長の勧めもあり、少し長めに休暇をとることにした。妻との旅行がてら、遠方にいる友人たちに会いに行った。

どこに行くにも持ち歩いていたパソコンを家に残して、人生で初めて完全に仕事から離れてみた。

最初はそわそわし、SlackやSNSでの情報が気になって落ち着かなかったものの、次第にいま目の前にあることを楽しめるようになった。妻との街歩きを、自然豊かな風景を、友人との会話を、純粋に楽しんだ。

なかでも、スポーツ業界で同い年である友人とドライブしながら話したことは、自分を見つめるきっかけとなった。

ドライブ中にふと「スポーツに熱中していないくせに、自分からスポーツをとってしまったら何もない。何をすべきなんだろう。」と漏らした。すると友人が、こう話してくれた。

みんな同じように「俺このままでいいのかな」と悩んでいると思うよ。だからこそ世の中に正解を求めるんじゃなくて、いち職業人として自分の哲学を持つことが大事なんだと思う。それに翼くんの「こだわりがないこと」は、立派な強みだよ。

そのときは感情というものが鈍くなっていたので、「そのとおりだよなぁ」とそのまま受け取っただけだったが、旅行から帰ってきて何度も振り返りを繰り返し、30歳を迎えた4月で大きな気づきとなって現れた。


僕は転職してからの2年間、いや社会人になってからの数年間、自分の意志を無視してずっと外に正解を求め続けていたのかもしれない。

「スポーツに関わる人は、スポーツに熱中してなければならない」と思いこみ、それができない自分は感情が乏しい人間とさえ思っていた。

そしていつのまにか、「スポーツの世界で働きたい」夢が「スポーツの世界で頑張らなければいけない」義務感に変わってしまっていた。それを「30歳になる」という焦りが加速させていた。

僕は自分で自分を縛り上げ、生きにくくしていただけだったのだ。

そう気づいてからは、すっと肩の荷が降り、とにかく目の前のことを一生懸命やるようにした。任された役割をこなし、同僚に積極的に声をかけた。スポーツが止まってしまった時期も「何かできることはないか」と必死に考え動いた。

すると面白いことに、今まで考えつかなかったアイデアが出るようになり、今まで以上に行動的になった。何より自分の中にとらわれていた常識を疑い、粘り強く考えられるようになった。

スポーツに対して自然体でいられた。

それは社内賞という形で成果にも現れた。

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さいごに

僕にとってスポーツは「熱中できないけど離れられないもの」であり、「自分なりの距離感で熱中しつづけたいもの」でもあった。自分なりの距離感や温度感で熱中すればいい。熱中にもグラデーションがある。

そして「スポーツに熱中できない」コンプレックスは、常に冷静な目でスポーツを見られる武器でもある。

そんなコンプレックスと共に、これからもスポーツへの炎を静かに燃やし続けていたい。

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※このnoteは、パナソニック株式会社が主催する連載「#スポーツがくれたもの」のプロモーションとして主催者の依頼により書いたものです。

▼以下主催者より
スポーツをする人、見る人、支える人なら必ずある記憶に残るストーリー。
そこには間違いなくチカラがある。情熱がある。そのチカラ・情熱は伝搬し、この時代を歩んでいく糧になるはず。

「#スポーツがくれたもの」はそんな一人ひとりのストーリーを共有する連載企画です。積み重ねてきたもの(過去)、コロナ禍において変化した価値観(現在)、そしてこれからの想い(未来)を、取材や寄稿を通して発信していきます。

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若月 翼
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