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スポーツという虚像世界
先日「情報爆発時代のスポーツメディア」という本を読みました。
スポーツメディアの歴史をジャーナリズムの観点から読み解いていて非常に面白かったので、読書メモがてら「見る」「支える」についてスポーツ僕の考えを書いておこうと思います。
娯楽へと変化したスポーツメディア
少しスポーツメディアの歴史を振り返ってみます。
本書によると、1964年の東京オリンピックを転換期としてスポーツメディアのあり方が大きく変わりました。娯楽化です。
戦前から続いてきたスポーツ報道は、技術指導や精神性に重点を置いたものから、東京五輪後はインサイド・ストーリーによる娯楽に軸足の置き場を変えつつあった。
スポーツメディアの起こりは戦前になりますが、元々はメディアの発信者は選手や指導者自身でした。
まだまだスポーツ自体が浸透していない時代ゆえ、スポーツの結果を伝えるだけでなく、技術やルール、さらにはスポーツの思想や精神性を啓蒙する必要があったからです。
ソーシャルメディア全盛の現代と似通った状況です。一方で、当時のスポーツ記事に娯楽性はほとんどなかったのが特徴的で、この点は現代の状況とは全く違いますよね。
その後、ラジオ放送にて単なる「実況放送」から伝え手の感情を乗せた「応援放送」と、娯楽性の要素が徐々に含まれてきました。
そして、1964年の東京五輪前後でテレビでのスポーツ観戦が浸透、スポーツメディアが一気に娯楽化していきました。
展開が全くわからないスポーツの面白さを魅せ、選手をスター化してみせたり、チームやアスリートのストーリーを伝えました。
「巨人・大鵬・卵焼き」と言われたように、テレビのおかげでスポーツが身近かつ「楽しむもの」になっていきました。
その一方で問題提起もされてきました。
「スポーツ・ジャーナリズムがスポーツの世界を虚像化したということは言えませんか。選手にしてもファンにしても、スポーツという美名あるいは美徳みたいな中に閉じ込めて一つの虚像世界を作り上げた」(浅野・本阿弥ら, 1970:p.37)
スポーツの「感動とドラマ」への違和感
スポーツは筋書きのないドラマ。
僕たちはスペシャルなプレーやエキサイティングな展開はもちろん、選手やチームのストーリーを楽しみ、そして感動します。
スポーツが持つ素晴らしい価値である反面、過度なショー化への指摘も書かれています。
計算された面白さを目標とするテレビは、スポーツにショー的要素を持ち込み、ドラマを演出し、ヒーロー作りに動いた。実態を無視して、興奮を煽り、感動を押し付けようとしているとしか思えないスポーツ中継が少なくない。しかもワイドショー化したスポーツ・ニュース番組では、キャスターの一人よがりが幅をきかせ、選手たちの肉声が聞こえない。無理やりのヒーロー量産で、実態の正確な伝達や批判を欠いている。(大野前掲書:p.123)
スポーツメディアは商業主義を加速させる報道を続け、娯楽的要素を強めていった。影響力のあるテレビだけでなく、活字メディアも、スポーツの「感動とドラマ」を追求し続けた。勝利に最大の価値を置く勝利至上主義が蔓延し、日本では勝つための体罰も頻繁に問題視されるようになった。勝利至上主義は商業主義にもつながり、メディアがスポーツを熱狂的に取り上げることによって、その動きに拍車をかけた。
(「する」スポーツで議題にあがる勝利至上主義が、体育的歴史や指導文化ではなく「見る」スポーツの観点で語られているのは、個人的に面白いなと思いました。)
本書では過度なショー化、虚像世界化が問題視されていますが、僕はスポーツの価値を「日々の生活から解放させてくれること」だと考えているので、スポーツが虚像世界であること自体は良いと思っています。
問題は社会とのつながりを無視してスポーツを考えることなんだ思います。
「高校最後の大会に怪我を押して出場する高校球児」のような(かつての)感動ストーリーに違和感を覚えるのは、高校卒業以降の生活が無視されてしまっているからです。
アスリートのストーリーに共感するのは、実社会で生きる彼の姿が見えたときです。「僕たちと同じ社会で生きるひとりの人間なんだ」という認識があるから、スポーツという虚像世界で真剣勝負する姿に感動をするのではないでしょうか。
ソーシャルメディアの台頭で社会が透明になりつつある今、僕たちは建前ではなく本音を求めるようになり、作為的に作られたモノに違和感を覚えるようになりました。
スポーツにおける「感動とドラマ」は結果的にできるものであって、無理やり作り出すものではありません。作為的なスポーツの「感動とドラマ」にはもうシラケてしまう。
なんだかスポーツメディアに限らず、スポーツを取り巻く問題の全てが社会とのつながりを無視しているがゆえに起こっているんじゃないか。そう考えるようになりました。
最後に
これからのスポーツの発展には、熱量あるスポーツ当事者がいかにニワカファンを惹きつけられるかが大事だと思っています。
だけど、それが社会とのつながりを無視されたものだったらきっとその先はない。スポーツは隔絶された世界ではなく、あくまで社会の一部・人間の営みなんだということを忘れないようにしたいです。
虚像と在りの戦いにならぬよう。
おわり。
書籍はこちら。
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この数日でスポーツメディアの歴史を振り返っていたけど、自分たちはその流れの中にちゃんといてこれからをつくっているなと確信した。アスリートにフォーカスした流れも僕たちとはアプローチが違うだけで、同じ線上にいるなと。
— 若月 翼 / Player!🐺 (@wakatsubasa) November 11, 2019
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